キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

日進月歩ワーカー

「あっ、初めまして!今年新入社員として配属された、○○と申します。いろいろ分からないことも多いと思うんですけど、これから宜しくお願いします!」

今年も新入社員がやってきた。大学卒業を機に当店に配属され事前評判も上々。すこぶるフレッシュな若手有望株である。僕は「この光景を見るのは何度目だろう」と、空虚な頭で思考を巡らせた。同時にこのバイト先で長い時を過ごしてきた事実を直視させられるようでもあり、心の奥がざわつくのを感じた。

第一印象で痛烈に予感した通り、彼は非常に有望だった。自分から率先して仕事を探し、社会における最重要項目とも言える報・連・相もそつなくこなし、配属から僅か数日後には同僚と打ち解けていた。それどころか、どうも周囲の人間は彼に対して完全に心を開いているようでもあり、初勤務から1週間が経つ頃には彼は同年代の社員と時折タメ口の応酬を繰り出せる程に成長した。

話は変わって、ある日の夕方。僕が休憩室に入るなり、例の新入社員と、僕がバイトを始めたのと同時に入社した女性社員Aが目に留まった。「あ、そういえばそろそろ○○さんの誕生日ですよね。彼氏さんからプレゼント貰ったりとかないんですか?」と新入社員である彼は語っていた。その休憩室で弁舌爽やかに日常会話を炸裂させる光景を横目で見ながら、僕はふとAと会話を交わしたことがほとんどないことに気付いた。その人の生まれも育ちも彼氏の有無も、趣味も年齢も。……僕は新入社員と和気藹々と接しているこのAの事を、何も知らなかった。

僕は元来、例えば「すみません、この部分分からないので教えていただきたいんですけど……」という同じ文脈であっても、通常トーンが1オクターブ上がり「いいよー!どこが分からんのー?」と返される筈の事柄であっても僕が同様の言葉を発した瞬間、目線も合わさず「適当にやっといて」と一蹴される人間だった。僕の一挙手一投足が相手に不快感を与えているのか、はたまた吃音症状で会話を上手く展開出来ないからなのか理由は定かではないが、とにかく。無論何度も「これでは駄目だ」と思いつつ幾度かの修正を試みはした。愛想笑いで波長を合わせようと気を遣った事もあったし、無理矢理に旬な話題を提供した事もあったけれどもその都度、努力いかんではどうしようもない現実が憮然とした態度で鎮座していた。

僕が暮らす島根県では、働き方が多様化したとは言え、未だ『正社員=普通・非正規=異端』との考えが根強く残っている。実際僕の今のバイト先にも偶然過去の同級生(いずれも会話をした事すらほぼない)から訪れる機会があるものの、交わされる言葉の第一声は決まって、現時点での勤務先の把握であった。僕が「今○○くん何しちょー?」と問えば、かつての同級生は例外なく「俺は○○って会社で働いちょーよ!」との結末に至る。正社員。正社員である。その光景を何度も目に焼き付ける僕は勝手に病んでしまうと共に「多分これが普通なんだろうな」とも「僕は普通ではないのだ」とも思ってしまう。

そうした長年の生活で分かったことは、僕は一時の関係性で終わる人間同士ならまだしも、長期的な関係を絶対的に余儀無くされる関係性(同僚・同級生・先生等)には酷く毛嫌いされるきらいがあるということだった。突如シフトを白紙にされた某コンビニ然り、正社員として入社した会社然り、特に理由もなく馬車馬の如く働かされた深夜勤務然り……。勤務初日には「よろしくー!」と気さくに話し掛けてくれた人もも1週間が経過する頃には見向きもされなくなる。そう。僕は『素で嫌われる』という類い稀なる才能の持ち主であり、対して上手く世の中を渡り歩ける人材は素で嫌われない。ただそれだけの事なのだ。おそらく前述した誰にでも好かれる新入社員くんも、全ては無意識下のうちの言動であり、それが同じ社員にも好意的に受け止められているのだろう。

僕は頻繁に「ダルいっすね」「今日キツくないすか」「いやー(忙しさが)ヤバいすね」との3Kじみた言葉を口にするが、そもそもそうした発言は言う事自体がタブーなのだ。自身の現状は極力口にせず、聞かれた時だけ語る、面倒な人間にも笑顔で対応。不満は呑み込んで自身で消滅させる……。それこそが世間一般的な『普通』の生き方であり、ほぼ間違いなくその渦中に置かれる当人もそれを特別な事とは意識していない。

とどのつまり、集団生活のフィルターを介した瞬間に、人は『普通』と『異端』に無意識的に区別されてしまうである。おそらく『普通』の人からすれば和気藹々と業務を遂行する最中、今こうしてひとりの社会不適合者が希死念慮を燻らせているとは夢にも思わないことだろう。

だからこそ僕は馬鹿にしてきた奴等に一泡吹かせるため、そして何より自分自身のためにも、何としてもこの『執筆』との武器でもって結果を出さなければならない。望んで進んだ蕀の道。ならば何年費やそうとも、やることをやりきるしかない。そのため今後とも、日進月歩の精神で邁進していく所存だ。

未来はきっと光輝いているとの期待を込めて、僕は今日も文を書く。たとえそれが、現状一時の気休めにしかならないとしても。

 


高橋優「同じ空の下」

僕は今日も、タイミングを逸し続けている。

僕は今日も、タイミングを逸し続けている。

思えば僕は、様々な業種を転々としてきた。映画館、道路交通警備員、学童保育、カラオケ、焼肉屋、携帯販売会社、コンビニ、ライブ運営……。その退職数は正社員の労働形態を含め計10回。合計の面接回数で数えれば30回以上に及ぶ。一口に「様々な業種を経験している」と言えば聞こえは良いが、実際その大半はやんわりとクビを言い渡されるか精神状態が限界を迎えた末の自己退職であり、円満に退職したことなどほとんどない。

とどのつまり、僕は世間一般の『普通』に適応出来ない社会不適合者だったのだ。無論、騙し騙し続ける選択肢も存在しただろう。けれどもある時期に当時奴隷のように扱われていたアルバイトにおいて退職を切り出せず、その結果身体的異常をきたしてからというもの、以降退職の旨を伝える際は必ずタイミングを逸さないよう万全の注意を払っていた。

実際かれこれ3年間続けている今のアルバイトも、辞めたいと思ったことは何度もあった。けれども僕は幸か不幸か、今のバイト先に関してだけは退職のタイミングを幾度も逸し続けていた。いっそのことスッパリ辞めて、心置き無く夢を追いかけてみようかとも思う。しかしながら今までの仕事生活を考えると、某かのバイトをしたとて僕は直ぐ様辞めるだろう。そもそも、一月分のアルバイト代を消失しただけで無一文になる現状だ。それならぬるま湯に浸かっておくべきであるとの自己弁護を何度も図りつつ、僕は今の無為なバイト生活に甘んじている。

この日もまた、そんな思いを内包しながら業務に当たっていた。

何故かこの日は、開店直後から右へ左への大忙しだった。店内は多くの客でごった返しており、従業員は短期で雇ったアルバイトを含め、皆何かしらの理由で動けないでいた。ふと店の外に目をやると、駐車場に入ろうにも入ることの出来ない自家用車が輪になって回り続けている始末。外は久方ぶりの晴天だが、僕の心には暗雲が立ち込めたようだった。

僕は「いらっしゃいませ」と空虚な言葉を吐き出しながら、棚空きになった箇所の品出しに勤しんでいた。ぶらりと店内を巡回し、棚空きを発見したら即座に埋めにかかる……。そんな馬鹿でも出来る単純作業でもって、僕は心に少しばかりの希死念虜とやるせない気持ちを抱えながら、一日の労働を果たす。

そんな時間を続けて1時間が経とうとした頃だった。活気に溢れた店内に突如、怒号が響き渡った。

「あんた!止めろって言ってるでしょ!」

怒号の主は、およそ20歳前後と思われる女性だった。濃い化粧と胸元を強調した出で立ちはたちの悪いキャバ嬢を彷彿とさせ、更には冷たく鋭い目付きも相まって「近寄りたくない」と瞬時に思わせる威圧的なオーラさえ放っている。

彼女の怒りの矛先は、自身のひとりの子どもに向いているようだった。目を凝らすと女性の側で、玩具を手に持った子どもが笑顔を浮かべているのが見えた。その見た目は幼い。その幼さと挙動から察するに、最近保育園に入園した頃合いの歳であろう。そんな手に持った玩具をしきりに振り回す子どもを眼窩の中心に据え、母親は猛獣の如く怒り狂っていた。実際ネガティブな感情の螺が外れたような子どもと激昂した母親のコントラストは賑やかな店にはあまりに不釣り合いで、行き交う客は皆意図的に視線を外し、見て見ぬふりを決め込んでいた。

更に周囲を見渡すと、少し離れた場所にもうふたり、男の子を見付けた。そのふたりに関しては最初に視界に入れた子どもとは対照的に、常に目線を下げ、まるで何かに怯えるように俯きながら、母親の後を追っている。

片や彼らの母親は、苦虫を噛み潰したような表情で自身の子どもたちを見つめていた。その視線はある種の諦めと焦燥を孕んでおり、おそらくは日常的に繰り広げられるひとりの子どもの自由奔放な行動に辟易し、加えて内向的なふたりの子どもに対しては眼中にもないのだろうとの心情がありありと見て取れた。

……僕は漠然と、「これがネグレクトか」と思った。後先考えずに子作りに励んだのか、はたまた金銭的にに余裕があったのか。その真意の程は不明だが、少なくともその家族は傍目から見てもハッピーな家庭生活を子どもが送っているとは到底思えなかったし、母親側も悪びれる様子は一切見られなかった。

僕は心が痛む感覚に陥りながら、引き攣った笑顔を携えてその家族の横を通り過ぎた。瞬間、耳元の無線からレジに向かうよう指示があった。どうもレジの人手が足りないらしい。僕は「了解です」との空虚な返事を終えると、足早にレジへと向かった。

当然の如く、レジには通行を妨げる程の長蛇の列が出来ていた。僕は「失礼します」と客を掻き分けレジへと到着すると、そこからは目の前の業務に没頭した。いつしか大量の客を捌くうち、あの家族の悲痛な光景は頭から消え去っていた。

状況が一変したのは、それから数十分が経過した頃だろうか。甲高い金切り声がうっすらと、けれども確かなリアリティーでもって聞こえてきたのである。僕が働いているバイト先ではレジに向かうまでの道程に、横並びで乾電池やらウエットティッシュやら、日用品や消耗品が数多く置かれている。実際に目撃していた訳ではないため定かではないが、遠くで聞こえる怒号から推察するに子どもがそうした列に並べられた商品を次々と手に取ってしまうため、あの母親がしきらはに叱責していたのだろう。当時僕とあの家族との距離は遠く離れてはいたものの、言動を改めない自身の子どもに対して母親の怒りのボルテージが上昇の一途を辿っていることだけは、ひしひしと伝わってきた。

更にそれから数分後、運命の時が訪れた。そう。あの家族がレジに到着してしまったのだ。しかも運の悪いことに、僕が担当しているレジに。

僕は粛々と仕事を遂行した。挨拶。商品スキャン。袋詰め。会計。その全てでなるたけ家族の誰もが視界に入らないように心掛け、かつ機嫌を損なわないように、出来る限りの配慮を持って臨んだつもりではあった。

全ての商品を渡し終わった後、僕は運命の接客の締め括りとして「ありがとうございました」と頭を垂れた。その瞬間、ふと視線を感じた気がした。確かな気配を察して顔を上げると、その視線の正体は数十分前なか常に地面に視線を落としていた、ふたりの子どものうちのひとりだった。あの家族の大半が出口へと向かう中、彼だけが僕をじっと見つめているのだ。子どもの目の奥は、僅かばかりの寂しさと憔悴と、そして何より「どうか助けてほしい」との心からの渇望を湛えているようにも思えた。

些細なミスを繰り返し、クレーマーに捕まり、店内を駆けずり回り……。結果、この日のバイトは散々だった。けれどもその何倍も「何故あの子を助けられなかったのか」との後悔の念が僕の頭を支配していた。

僕は彼の腕を引けなかった。否、引かなかったのだ。おそらく僕の性格からして、もう一度あの日を繰り返したとて、彼を助けることはなかったろう。けれども意識の埒外に存在するであろう何がしかの行動を取っていたのなら、何かが変わっていたのだろうか。あれから数日が経つ今も、あの家族との邂逅は奥歯に挟まった魚の骨のように突っ掛かり、心をざわつかせる巨大な要因となっている。

……僕は今日も、タイミングを逸し続けている。

『普通』ってなんだ?

こんばんは、キタガワです。

 

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生き方が多様化しつつあるとは言え、未だ日本においては何がしかの同調圧力が点在している印象が強い。


……例えば学校生活。スポーツ万能で成績優秀、その滑らかな語り口を武器としてクラスの中心に君臨し誰にでも好感を振り撒く人間がいる一方、特別な理由もなく何故か迫害、嘲笑、苛めの対象となるなど常に憂鬱の海を漂流しながらスクールカースト最下層で泥を啜る人間もいる。


……例えば社会生活。誰にでも分け隔てなく接し、勤務数日後には仕事先の誰しもにスキンシップ、タメ口、イジられる等々距離感の近い関係性を無意識的に構築出来る人間がいる一方で、何をしても空回り。質問や世間話をしようものなら眉を顰められてしまい、希死念慮を抱きながら1日1日を堪え忍ぶ人間がいる。


果たしてそうした『普通と異端とを二分するもの』とは、一体何なのだろうか。


これは僕個人としての見解に過ぎないが、人間とは『産まれ持っての特徴』と『青年期の経験』、そして以上のふたつを踏まえての『真理』が組み合わさって形成されるものであると思っている。


まずは『産まれ持っての特徴』という部分から見ていこう。『蛙の子は蛙』という言葉があるように、どれだけ幼少期に両親に対する嫌悪があったとしても、ある程度自身が大人と呼ばれるようになった頃には「母に似ている」もしくは「父に似ている」との漠然とした性格的、嗜好的の一致に至る。これは後述するふたつの要因も比較するとどう足掻いても回避不能な長所、もしくはハンディキャップと言える。


よくメディアで語られる『親の七光り』や『二世タレント』との言葉が象徴するように子は大なり小なり、遺伝子レベルで何がしかの親の性質を受け継いでいる。これは外見的特徴のみならず、性格的な部分も含めての話である。当然これらの個性を自らの武器にするかはたまた枷とするのかは人によって千差万別だ。けれどもそれらの事柄が上手く自己解決出来ている人間とそうでない人間とでは、明らかに後の生活に差が出る。


中でも外見的コンプレックスは、誰もが学生生活において抱く悩みのひとつではなかろうか。『第一印象は見た目が9割』『○○っぽい』との言葉に象徴されるように、誰が何と言おうとベースは重要だ。無論この特徴は整形でもしない限り個性として受け入れるしかないが、それを明るく昇華出来るか否かもやはり遺伝によって継承された性格的問題も関わるため、難しいところである。


それ以外にも顔の一部分のパーツであったり声質や髪質、更にこれは声高に言うべきではないが神経精神疾患(吃音・チック等)といった事柄も、それが他者からすればどれだけ些細で軽んじられる事象であっても、直接的な固有の象徴として鎮座してしまう。


次に『青年期の経験』との観点から見ていこう。これは上記の産まれ持っての特徴に関連する部分もあるのだが、人間は集団で強制的に毎日を拘束される学校生活で、改めて他者と異なる自分を直視することとなる。勉強、運動、絵、部活……。一定数の人間と行う同様の作業を通じて判明する自分は様々だが、ある程度の年齢を経た今当時を思い返してみると、やはり自分自身の原点は青年期の経験によるところが大きいというのは、大多数の人間が感じる事象なのではなかろうか。


おそらくは壮絶なイジメを受けた者は日常を俯瞰(客観視)する力が身に付き、逆に日々友人らと賑やかに過ごしてきた人間には、高いコミュニケーションスキルと人付き合いのノウハウが備わったことだろう。これは趣味嗜好についても同様で、青年期に好んでいたことは20を超えた大人になっても然程変わらない。音楽や漫画、スポーツのジャンルであったり。料理への興味であったり。はたまた勉学の楽しさ(物事の深い部分まで興味を持つ)であったり……。


だからこそ、僕は声高に唱えたい。青年期の経験こそが、最も自己の精神性を築くものであると。


そう。良い意味でも悪い意味でも尾を引くのだ。青年期の経験は。金子みすゞの著書に「みんな違ってみんないい」という一節があるが、十人十色の特色を持っており、同時に自分自身を変えようともがこうが180度変化することは絶対にない。陰鬱な経験をした者はそれに相応しい内向的な人間に成り下がるし、ハッピーな経験を積んだ者は積極性の高い人間になる。


そして最後に。『上記の事柄を踏まえた真理』について記していこう。


ここまでつらつら綴ってきたように、人それぞれの個性は産まれながらにして構成され、青年期の生活を終える頃には今後何十年と生きるであろう自分のアイデンティティーはほぼ確立すると見て良い。よってそこから更に先……。具体的には成人になろうかという大学進学~社会生活の間には、自分という人間を9割方理解した上で、自分がどのような考え・行動に及ぶのかが肝となってくる。


そこで大きな障害となるのが、社会生活である。


ニート生活を送る人間以外は大学生でもフリーターでも正社員でも、基本的に何かしらの労働を経験する。そうした生活を繰り返す中で社会に順応できる『普通の人間』と周囲から黒い羊として蔑まれる『異端者』とが明確に区分されるのだ。


前述した話の繰り返しになるが、社会生活で異端者と見なされる人間は言うまでもなく、青年期の経験が良い形で転がらなかった類いの人間である。しかしながらそうした人間には決まって画力・文才・動画制作等『社会生活以外で光るスキル』も備わっているものなのだが、日々を生き延びるためには金が要る。そして金を手に入れるためにはまずもって最低限の社会生活……つまりは人間関係の構築が必須である。ここで自分自身を十分理解し、その結論として「自分は人と関われない」と痛感している人間にとっては、『金を手に入れる』という必要最低限の行動(労働)に多大なストレスを感じることとなる。


今記事を読んでいる読者の方々にとっては痛烈に感じ入ることだろうが、人間社会は酷く残酷であり、波長を合わせなければ直ぐ様立場が危うくなる。これは興味のない人とは離れれば良いという学校生活とは全く異なる代物で、総じて今までの人生で培われてきたコミュニケーション能力や雑談力、人間経験値いかんで大きく左右される。


……そこで、今までの話に戻る。僕は人間には産まれ持っての性質があり、それを踏まえて青年期に様々な経験を積み、20歳になる頃には9割方の自分が出来上がると述べた。とどのつまり産まれながら何かしらのハンディを抱えていて、更には青年期にトラウマチックな経験を大量にし、そんな自分自身に絶望しながら社会生活に足を踏み入れた者は、自動的に詰むのだ。


そう。冒頭で記した『普通と異端とを二分するもの』の正体は非常にシンプル。要するに『社会生活が当たり前に行える人間=普通』、『行えない人間=異端』ということなのである。だからこそ世間一般的に言われる『異端者』は社会生活ではない、別の道を歩む以外に道はないのだ。


今やYouTuberやブロガーなど生き方は多様化し、ある程度異端者に対する救済措置的な試みは成されている。しかしながらやはり正社員=安定、非正規労働者=不安定とのイメージは今も根強く残っており、社会や集団生活で生きられないと悟っていながらそれでも社会生活で働くしかない人間は一定数存在していて、彼らは日々一般的普通との乖離に悩みながら、騙し騙し生きている。


いろいろと書き殴ってきたものの現実は残酷で、結局は自分の手で理想を掴み取るしか道はない。様々な境遇を辿ってきた全ての人間に幸あれと願いつつ、自身の尊敬するアーティストの一節でもって、今記事を締め括ろうと思う。


《涙こらえて立ちつくす 人の背中をそっと押してやる/どんな時だって優しい顔 そういう人になりたいぜ》

《めんどくせぇなって頭掻いて 人のために汗をかいている/そんで「何でもねぇよ」って笑う そういう人になりたいぜ》

 


amazarashi 「そういう人になりたいぜ」 Acoustic

メンバーが失踪→脱退の末路を辿ったバンド5選

こんばんは、キタガワです。


ロックバンドは素晴らしい。当ブログにおいても繰り返し記事にしてきたが、僕はバンドに人生を変えられた人間である。そして僕と同様にギター、ベース、ドラムが奏でる爆音のアンサンブルに人生を狂わされた人間は数多く存在すると思う。


だが彼氏にしてはいけない人間の職業(通称3B)が美容師・バーテンダー・バンドマンを指しているように、今やバンドマンの風当たりは比較的悪い傾向にある。


しかし今日も多くの若者が大成することを夢見て、人生の貴重な数年間をバンドという名の大勝負にベットする。その理由は人それぞれだろうが、大多数の人間がバンドの夢を抱いた瞬間というのは、総じて自身の尊敬するバンドマンに対する大いなる憧れや、注目を浴びる高揚感に端を発するのではなかろうか。けれどもその道程は当然平坦ではない。音楽ナタリー等に象徴される各音楽メディアにメンバー脱退・活動休止・解散の文字が頻繁に踊ることからも分かる通り、一見順風満帆なバンド生活にも思えるそれは誰もが表沙汰にしていないだけで、ネガティブな面も少なくないのだ。


さて、今回取り上げるのは、バンド内で起こり得るバッドエンド的な事柄の中でも群を抜いて衝撃を及ぼすと思われる『失踪』である。誰にも胸の内を告げず姿を消してしまった彼らの人生に幸多かれと祈りつつ、失踪に至るまでのバンドの流れと共に辿っていこう。

 

 

Kidori Kidori

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インディーロックバンド、Kidori Kidori(前バンド名はキドリキドリ)。洋楽に多大な影響を受けたバンドサウンドと帰国子女でもあるマッシュ(Vo.Gt)のハリのある歌声を魅力のひとつとし、ライブハウスで根強い人気を博していた。


失踪したのは、ベース担当のンヌゥ。多くのライブを控える渦中であったにも関わらず突如として姿を消した彼であったが、理由が一切不明であることから一時は最終的に真実であると語られた『精神的不安による失踪』との意見と共に刑事事件説や死亡説も浮上する騒動となり、必然当時はSNSを使用した大規模な拡散が成された。最終的に1週間後に無事保護されたものの、公式サイト曰く「本人と話し合える状況にない」とし、詳しくは語られていないもののンヌゥの抱える精神疾患が原因であることが明らかとなった。


そしてそれから数日のうちに脱退が発表され、その後はサポートベーシストを含めず、徹頭徹尾マッシュと川元(Dr)の2名体制で活動。かつてベースサウンドを主軸としていた楽曲もギターや打ち込みで代用することなく、ンヌゥ担当のベース音は一切鳴らさないという一周回って革新的な試みでもって、既存のファンのみならず騒動を知っていた音楽ファンからも、比較的好意的に捉えられていたのが印象深い。


その後は2017年7月6日に突如解散とメンバーのコメントが掲載され、この日を持ってKidori Kidoriは9年のバンド人生に終止符を打った。Kidori Kidori解散後、マッシュはソロプロジェクトSuhm(スーム)を始動。川元は音楽業界そのものから退くことを表明し、別々の道を歩み始めた。


確かに以下に挙げるBase Ball Bearの湯浅やthe cabsの高橋など、バンドマンの失踪は少なからず存在する。けれどもそれは『連絡が取れなくなっていました』という事後報告が大半であり、当時ンヌゥ失踪時に大々的に拡散されたような、当時着用していた服装や背格好を詳細に記して「情報をお寄せください」と願う行動は基本どのバンドも行ってこなかった。言わばンヌゥの失踪は、日本におけるバンド全体の根幹を揺るがした前代未聞の大事件でもあったのだ。

 


Kidori Kidori (キドリキドリ) / Watch Out!!! MV

 

 

KANA-BOON

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人気絶頂期の若手ロックバンド、KANA-BOON。バンドマンの失踪事件においては最も記憶に新しいが、失踪したのはベース担当・飯田である。彼が失踪した時期は奇しくもKANA-BOON過去最大規模の単独ライブを控える状況下でのもので、ライブ中止と共にその中止理由を明かす形で飯田の失踪は公表された。


言わずもがな、KANA-BOONは今や大型フェスのメインステージ抜擢が無条件で確約するほどの人気バンド。必然失踪の一報が公表された頃には1万リツイートを超える反響と、更には彼らと同じく人気絶頂期にあったKEYTALKやTHE ORAL CIGARETTES、04 Limited Sazabysなど様々なバンドが拡散したために、当時バンドや音楽に興味のあった人間のみならずニュース番組にも取り上げられるに至った。そしてその報道に更なる拍車をかけたのが週刊文春を筆頭としたゴシップ雑誌で、かつて幸福の科学に出家した清水富美加(法名・千眼美子)と飯田が不倫関係にあった事実と、KANA-BOONのメンバーのうち飯田のみ唯一同級生ではないという不仲騒動にも斬り込んだためか、結果的に飯田の失踪は日本国内を巻き込んだ一大騒動となった。


その後飯田は保護。現在のKANA-BOONの多大なプレッシャーとが最も極端な形で具現化してしまったと事情を説明し、数ヵ月間の療養の末に脱退した。


繰り返すが、KANA-BOONは今をときめくロックバンドだ。必然各種タイアップやレコーディングの予定が詰まっており、止まることは許されなかった。飯田失踪後は間髪入れずにベストアルバムとシングル『スターマーカー』を発売し、フェス出演についてもキャンセルすることなく、急遽サポートメンバーを加えてのパフォーマンスを繰り広げ称賛を浴びた。現在において彼らの口から飯田の名前が語られることすらほぼないし、ファンの間でも話題に挙げることが一種のタブーと化している感すらある。だが忘れてはならない。KANA-BOONの今の絶頂期に至るまでの道程には、いつも飯田が存在していたということを。

 


KANA-BOON 『シルエット』

 

 

the cabs

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2013年に解散した短命のロックバンド、the cabs。今をときめくKEYTALKの中心人物・首藤と、現österreich(オストライヒ)のサウンドクリエイター・高橋が在籍していたバンドとしても知られる。


the cabsの特長は、両極端な歌声を持つ2名によるあまりに独創的なアンサンブルだ。the cabsと同様2名の歌声が中心を担うバンドに、同時進行で首藤が組んでおり後に大成したKEYTALKが挙げられるが、the cabsのボーカルは首藤のソプラノ的高音と高橋のデスシャウトが混雑するという他に例のない独自の作風であり、同時にそれが彼らの確固たるオリジナリティとして君臨していた部分でもあった。


けれども1stフルアルバムのリリースツアーを翌月に控えた2013年2月、突如高橋が失踪。ボーカル・ギターのみならず楽曲制作においても鍵を握っていた彼の失踪は、バンド分裂の重大な契機となった。必然ライブはキャンセル、バンドは解散を余儀無くされ、高橋はコメントにて「僕はいま心にある種の問題を抱え、日常生活にも等しく問題を抱えています。それはまったく今回の件の言い訳にはなりませんし別問題ですが、それにより今後音楽に対して向き合っていく自分を想像することが難しく、他の活動をしていくことは現時点で考えていません」と心境を綴った。初のフルアルバムをリリースしてから約1ヶ月という、あまりにも早い幕切れであった。


その後は前述の通り、首藤はKEYTALKとしての地位を不動のものとし、高橋は自身が発起人となった素顔を一切見せない謎の音楽グループösterreichを結成。österreichは当時音源を一切リリースしていない全く無名な状態であったにも関わらず、the cabsのファンを公言していた著者・石田スイの熱烈なアプローチが契機となり、アニメ『東京喰種』のOPに抜擢されるに至った。異様な手数の多さで話題をさらったドラムの中村は海外修行に赴き、今は各自新たな歩みを進めている。

 


the cabs"二月の兵隊"

 

 

ANGRY FROG REBIRTH

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ラウドロックバンド、アングリー・フロッグ・リバース。長い下積み期間が実を結び2016年秋に晴れてメジャーデビュー……する筈だった。


失踪したのはボーカル担当・U。2016年8月14日からUと他のメンバーは、音信不通の状態に陥っていたという。更にはその事実を公にすることなく臨んだ22日のライブにもUは姿を現さず、ライブ前には観客に事情を説明しUが不在のままボーカルなしの編成でライブを行った。そう。アングリーはメジャーデビューを祝した全国津々浦々を回るツアーの開催を数日後に控えていた身であると同時に、メインボーカルの失踪という窮地に立たされてしまったのだ。メンバーは「正直悔しいです。メジャーも決まってこれからという時にこんな結果になるなんて思いもしませんでした。何より応援してくれている皆に申し訳ない気持ちで苦しいです」と綴り、残されたツアーに関しては全てUの抜けた穴をサポートメンバーが埋める形で、もしもサポートが見付からなかった場合に関してはUのボーカルパートを完全に廃する形で敢行する前代未聞の措置が図られた。


その数ヵ月後にはUの脱退……ではなく、全楽曲の作詞作曲を務めていた池田以外の全メンバーが脱退し、それに伴い年末をもって無期限の活動休止とすることを公式で発表した。この大規模な脱退はUの音信不通に端を発するものであることは言うまでもないが、おそらくバンド業界全体を見ても、僅か3ヶ月の短期間でメインボーカルが音信不通→メジャーデビュー白紙→作詞作曲者以外全員脱退との悲劇的な結末を辿ったバンドはほぼおらず、更には詳しい音信不通理由や脱退理由が不明であることからも、今なお謎に包まれた一幕であるとされている。


余談だが、僕は奇しくも未だUが在籍していた時代のライブを、広島にてFabled Numberというロックバンドトリを務めるライブで観ることが出来た。喉が潰れんばかりに絶叫するステージングとは裏腹にライブ終了後のバーカウンターやステージ裏ではひたすら項垂れ、人との接触を避けていたのが印象的だったUの姿を今でも鮮明に思い出すことができる。


なお2019年の年末をもって活動再開を発表。メンバーは3年前に唯一脱退との決断を取らなかった作詞作曲を務める池田と、新たな楽器隊4名。けれども新たなボーカルはおらず、かつてUが担当していたシャウトパートは消滅。必然池田がボーカルを務める全く新しい形のアングリーとなり、最近ではバンドマンの実生活をつまびらかにするYouTube配信もスタートさせるなど、彼らなりの決意を秘め猛進中だ。

 


ANGRY FROG REBIRTH - 2step syndrome

 

 

Base Ball Bear

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爽快感溢れる系統のロックの立役者にして、若手ロックバンドの筆頭であったベボベ。メンバーのほとんどが千葉の高校の同級生(ベースの関根のみ1年後輩)であり、高校卒業を期に本格的に音楽活動を開始。以後結成から約15年の長きに渡り活動を続けていたが、ギターの湯浅による突然の失踪によって活動が困難な状況となり、その後脱退へと至る。


湯浅は制作作業をする予定だったスタジオに現れず、長らく連絡が取れない状態が続いていたとされている。その後公式に記されたスタッフのコメントでは「第三者を通して、今後Base Ball Bearでの活動を続けることができないという意志表示を受けた」と説明しており、加えて「この数日間、さまざまな方法で湯浅本人との話し合いを試みたものの、誰も直接連絡が取れなかった」とも綴られた。よって今回記したバンドの中では唯一、メンバーや関係者に失踪理由を告げないまま姿を消し、更には今どこで何をしているのかすら一切不明のまま脱退。前述の通り、この時Base Ball Bearは奇しくも結成15周年、デビュー10周年を迎えようという頃であった。


そのため彼の脱退は、完全なる事後報告の形でファンへ報告されるという悲しき結果となった。後にバンドのフロントマンである小出は「突然このようなことが起こってしまったことが理解出来ませんし、怒りすら感じています」と述べつつ、「この4人というルールを強く持っていた僕らでしたが、今はあの4人では表現できなかったことに挑戦していきたいという気持ちでいます」と締め括った。


その言葉を体現するが如く、その後のベボベは今までのロックバンド像を覆す実験的な試みから距離を置き、まるで結成当初へと遡ったようなシンプルな音像の楽曲を数多く発表。そして現在のライブではかつての代表曲も一切ギターのサポートを入れず徹頭徹尾3人のみのサウンドで再構築して演奏するなど、まるで焦燥に駆られるような勢いで猛進し再評価の兆しを見せている。当然ギターの音が減ったことで「音が足りない」「前の方が良かった」と揶揄する声もあるにしろ、新たに再出発を果たした彼らの決意は暗い声も凌駕する力強さに満ち満ちている。

 


Base Ball Bear - ドラマチック

 

……さて、以上が今記事の全貌である。


バンドマンのステージの上で魅せる鬼気迫る姿は格好良く映る。けれども実生活も同様に破天荒な人間というのはほぼおらず、大半のアーティストは我々と同じく些細なことで傷付き、怒り、将来と現実に苦悩を抱える人間ばかりである。ひとつのアルバムをリリースするのにかかるのは平均2年。その間バンドはステージ上でスポットライトを浴びる一方、それ以外の時間は歌詞や作曲、それが終わればスタジオ練習、果ては何ヵ月にも及ぶレコーディングと、ファンはおろか人との付き合い自体がほとんどない毎日を送っている。言わば音楽家とは孤独な職業なのだ。


今回は失踪→脱退したミュージシャンにスポットを当てたが、アーティスト……その中でもとりわけバンドマンは、結果が極めてダイレクトに伝わる特徴を持つ。ライブの動員の振るわなさはステージに立った瞬間否が応にも痛感してしまうし、発売した音源は毎週「何枚売れた」とのリアルな報告が成される。無論今回紹介したバンドは決して大金持ちとは言わないまでも、レーベルに所属し、CDを何枚もリリースしているバンドである。そのため彼らよりも売れていないバンドの失踪事件は霧に包まれているだけで、実際何件ものバンドがそうした危機に直面していることだろうと思う。


「辞めたい」と心情を吐露したとて一度決まっているライブの予定はキャンセルすることは出来ず、更には事務所との契約によって音源製作も求められるのがバンドあるあるだ。結果「辞めたい」との思いを抱いたとしても数ヵ月の間は、バンドメンバーと日々顔を会わせ、辛いライブをこなす必要がある。総じて今回取り上げた人々は、そうした悲痛な心境を抱きながら活動していた人間の最も極端な例として発現してしまったひとつの例であったとも言えるのではなかろうか。


Kidori Kidoriやthe cabsのように解散を選択したバンドもいれば、ベボベやアングリーのように形を変えつつもバンドとしての志を崩さず、今なお活動を続けるバンドもいる。もちろん彼らが選んだ行動に正解や不正解は存在しないが、どのような決断を下したかによらず、バンドとしての生き様をぜひ頭の片隅にでも置いてもらい、あわよくば興味を抱いてほしいと強く願う。

映画『コーヒーが冷めないうちに』レビュー(ネタバレなし)

こんばんは、キタガワです。


日々猛威を振るう新型コロナウイルス。世間的にはもちろんのこと身の回りで考えてもその余波は確かに存在していて、まず執筆仕事がひとつ足りとも無くなり、所謂『不要不急』と呼ばれる類いの外出も出来ないためフラストレーションが溜まる一方である。よって今現在の僕は日がな1日自室で酒をかっ喰らうばかりで、随分と退屈で自堕落な日々を過ごしている。


さて、外出が出来ないとなると必然家で映画を観る機会も増える。そのため最近は過去当ブログにてレビューした様々な映画を改めて見返すと共に、今まで意図して触れてこなかったジャンルにも手を出してみようと試みている。……という訳で今回鑑賞したのは、「4回泣けます」との挑戦的なキャッチコピーが話題を呼んだ感動系映画『コーヒーが冷めないうちに』である。

 

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舞台はとある喫茶店で、そこにはひとつの都市伝説が噂されていた。それはある席に座ると自身が思い描いた日に戻ることができる、というもの。けれどもそこには『戻れるのはコーヒーが冷めるまでの僅かな間』『店からは一切出ることが出来ない』とのルールも定められており、何より『例え戻ったとしても結果は変えられない』とする大きなデメリットが垂直に立っていた。そのため噂を信じて来る人々は皆ルールを聞いた瞬間に消沈し実行することなく店を出てしまうために、その席に座る人間は長らく存在しなかった。


そんな折、自身の言動が悲劇的な結末を招いてしまった多種多様な後悔を抱く人々が喫茶店を訪れ、ルールを承知の上実行に移すこととなる。果たして悩める人々は戻った先の過去で何を経験し、何を感じるのか……以上が物語の大まかなあらすじである。


個人的に感動系の映画は、深い感情移入が出来るか否かで最終的な満足度が大きく変わってくると思っている。だからこそこの映画で例えるなら『なぜ時間を戻したいのか』『戻った先で何がしたいのか』に代表される5W1H的な心理描写と、最終的に『その後どのように過ごすか』との描写は絶対に必要で、この部分が上手く描けているかどうかが良作か駄作かを決める運命の分かれ道なのだ。


さて、上記の重要部を踏まえて今作を観てみると、前半部分は非常に秀逸な展開で引き込まれるのに対して後半部分は思考が麻痺するが如くのトンデモ展開であり、総合すると『めちゃくちゃ惜しい映画』といった印象である。どうしてこうなった……。


そう。この映画は、ある場面を境に展開が急激に変化する。これは千と千尋の神隠しで言うところの「元の世界に帰れない」→「じゃあ湯婆婆を倒そう!」、ONE PIECEで言うところの突然ルフィが「手っ取り早く秘宝を手にするにはどうすればいいかみんなで考えようぜ」とするような、全体通して「何でそっち方面に行った!?」との思いに駆られてしまう急展開ぶり。更にはその後の未来と過去に焦点を当てる置いてけぼりの感覚も相まって、後半は泣けるには泣けるが話の無理矢理さを考えすぎてしまったがために、泣くことに考えが及ばない感覚に陥ってしまう。


しかし擁護するならば、この急展開は単なる悪手ではなく、純粋に映画化の際に付け加えざるを得なかった要素を付け足した故の結果であると思っている。というのも『コーヒーが冷めないうちに』は元々、全4部作を連続的に舞台上で描く戯曲(演劇)であるためだ。演劇を実際に観たことのある方にはご理解いただけると思うのだが、他愛のない日常会話で幕を閉じたり問題解決を放り投げて暗転するなど、総じて演劇には確固たるオチがないことも多い。無論この手法は目の前で演者がリアルに動く演劇だからこそ成り立つものなのだが、2時間尺の映画に落とし込む際には絶対に『大きなオチ』は必要不可欠で、そこに向かうためには元の演劇では描かれていない強引な展開を映画的な意向で付けなければならなかったのではと推察する。実際前半部分の完成度が極めて高かったのに対し後半が取って付けたようなトンデモ展開であったことも、その証明ではなかろうか。


けれども前述した通り前半部分は非常に引き込まれたし、一言で駄作というべき作品でないこともまた確かである。だがその特徴的なタイトルよろしく、どれだけ些細な横槍でも心が冷めてしまうような、特にどれだけ秀でたポイントがあったとしても全てを混みで全体を評価するような所謂『映画を頻繁に観る類いの人間』が鑑賞した瞬間、どうしても低めの評価を下さざるを得ないのだ。


『Steins;Gate』や『君の名は。』以降痛烈に感じることだが、やはりタイムリープものは難易度が高いと共に、類似作品に慣れすぎている(『時をかける少女』、『打ち上げ花火~』など)ためにマンネリ化の傾向が強い。今作は粗削りな部分は多々あるにしろ、確かにそうしたマンネリを打ち崩すことには成功している。けれどもそうした瞬間、何よりも厚い『全体的な完成度』という壁に直面してしまうため、結局タイムリープ作品の行き着く先は『ぐうの音も出ないものを作る』か『誰も観たことのない新機軸の作風を打ち出すか』以外にないのだなと思い知った一幕でもあった。うーん……


ストーリー★★★☆☆
コメディー★★☆☆☆
配役★★★☆☆
感動★★★★☆
エンターテインメント★★★☆☆

総合評価★★★☆☆

 


「コーヒーが冷めないうちに」予告編

新型コロナウイルスと、今の島根県

こんばんは、キタガワです。

 

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4月9日、島根県で遂に初の感染者が確認された。あれから数日が経ち、記事執筆時点では感染者数は10人に増えるに至った。今回はそんな島根の今の実情を、地元民からの視点で紐解いていきたい。


コロナが目に見えて猛威を振るい始めたのは3月後半~4月(報道番組で3密やクラスター、都市部の感染者が日々報道されるようになった頃合い)。しかしそれまで島根県の中ではどちらかと言えば楽観ムードであったように思う。実際僕のバイト先や家族間でも「何かヤバいことになってるね」との会話が交わされることはあるにしろ、どこか現実味のないフワフワとした雰囲気に包まれていた。更に当時感染者が確認されていない県が島根・鳥取・岩手の3県のみであったことから「非常事態宣言出たらしいよ」などの会話は日々行われはするが、最後には決まって「でもその中で島根って凄いよなあ。感染者出てないもん」と締め括られるという、言わば地元を自虐するようで自慢し、他県を持ち上げるようで落とすトークを無意識的に展開する余裕はあった。


実際僕自身も、どちらかと言えば楽観的に捉えていた側の人間であった。恥ずかしながらマスクを着けていない日もいくらかあったし、来たる3月から5月にかけてのライブのために休日申請を取っていたほどで、のほほんと日々を過ごしていた。


……そんな甘い考えは、ある日を境に瓦解することとなる。


そう。去る4月9日、島根県内初の感染者が確認されてしまったのである。それまで地元民の間でも「少なくとも一人目にはなりたくないね」との会話は交わされてはいたが、やはり街中で知り合いと出会うことが日常茶飯事と化している島根県では情報が伝播するのも早いもので、感染確認の僅か数時間後には感染者の性別や年齢、学校名、果ては家族構成やバイト先までもが白日の元に晒され、改めて過疎地において何かが起こることの重要性について思い知った。


そしてその翌日から、街の雰囲気は一変した。まず目についたのは、マスク着用率の高さだった。他県でコロナが発生した当初にも漠然と「マスク多いなあ」と感じるほどには見受けられるようにはなっていたが、今やその比ではない。誇張表現でも何でもなく行き交う人は9割方マスクを着けており、マスクを着けていない人間は村八分にされるとは言わないまでもほぼほぼ存在しないし、怪訝な反応をされることもしばしばだ。


更に店に出向くと2mおきに区切られたテープが床に貼られていたり、「当店はコロナウイルスに対してこのような対策を行っています」といった貼り紙が無造作に貼ってあったりする。ちなみに上記の島根県内で報告された感染者の勤務するアルバイト先では新たに数人の感染が報告され、今や島根県知事お墨付きのクラスターと化している。その店舗が駅に面した島根県屈指の夜のスポット(というより居酒屋はここら辺しかない)であることから、近隣の居酒屋やバー、スナックは軒並み営業自粛、もしくは時短営業の措置を講じざるを得なくなっており、ゴーストタウンの様相を呈している場所も多い。


僕が勤務するバイト先でも同様の措置が講じられている。今現在レジの前には透明な幕が貼られ、従業員のマスクは義務化。更には当然の如く消毒液の設置や「お並びの際は間隔を空けて……」とのテープも貼られ、果てはレシートを渡す際もトレイに置いて取ってもらうという徹底ぶり。


個人的に最も衝撃を受けたのは、とある業務内容の追加である。その内容はズバリ、従業員全員が普段の業務に加えて『消毒作業』的行為を1日数時間命じられる、というもの。具体的には、お客様が触れたものは逐一消毒液を染み込ませたタオルで拭く。エレベーターのボタン、自販機、エスカレーターの手刷り、果てはお客様が使った買い物かごも、ひとつずつ僕らが拭いてから元の置き場に戻すのだ。無論これは感染を広げる可能性のある不安要素をひとつでもなくそうと定められたもので、棘のある表現をするならば「コロナ対策やってます」との免罪符の元実行に移しているのだろう。


そうした日々が続くと次第に罪悪感も芽生えてしまうもので、僕は目に見えない同調圧力に屈するようにマスクを着けるようになったし、高齢で持病持ちの両親の為にもと外出の機会も減った。娯楽であったライブも収入源の執筆依頼も、ここ数ヵ月ひとつもない。世間で叫ばれる『コロナ疲れ』の意味がようやっと理解できた。


正直今の状況はとても辛いし、何より息苦しい。行き交う人全員がピリピリしている。加えてマスクを着けているため表情が分からず、不思議と冷淡なイメージを抱いてしまったりもする。僕が和やかに暮らしていた田舎の島根県の面影はもはやない。自分は絶対にかかるまいと、少しでも感染の可能性のある事柄は遠ざけようとする酷く無機質な島根県。こんなのは、島根県じゃない。自宅から少し歩く範囲の人は全員顔馴染みで、すれ違うたびに「こげなことあったんよー」と軽い会話を交わす。事あるごとに「これ貰いもんだけんね」とお菓子を手渡してくれ、緩やかに時が過ぎていく……。それこそが島根県の良さであったはずなのだ。


東京から遠く離れた田舎でさえこうなのだから、都市部の疎外感はとてつもないものがあると思う。だが今は頑張ることしか出来ないことも、全員が良く分かっている。


早く元の世の中に戻りますように。こんなに苦しい日々はもうたくさんだ。

 


感覚ピエロ『感染源』 Official Music Video

星野源“うちで踊ろう”と安倍内閣総理大臣のコラボ動画に思うこと

こんばんは、キタガワです。

 

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人間誰しも深酒や体調不良等で目覚めが悪いと経験したことが一度はあるだろうが、まさかスッキリ目覚めて開いたツイッターのTLにて、しかも自国のトップによる呟きで瞬時に気分が滅入るとは夢にも思っていなかった。以下勢いのみで書き進めていくため文章の体を成していない箇所もいくつか見受けられるだろうが、ご容赦願いたい。


物議を醸しているのは、安倍晋三内閣総理大臣が自身のツイッターで発したひとつの投稿である。そこには星野源が先日作曲し話題を呼んだ楽曲“うちで踊ろう”の弾き語り動画に合わせて日本国首相が犬と戯れ、コップを傾け、本を読み、テレビを鑑賞するというプライベートとおぼしき風景が流れ、以下の言葉と共に改めて国民への感謝と協力を呼び掛けていた。


「友達と会えない。飲み会もできない。ただ、皆さんのこうした行動によって、多くの命が確実に救われています。そして、今この瞬間も、過酷を極める現場で奮闘して下さっている、医療従事者の皆さんの負担の軽減につながります。お一人お一人のご協力に、心より感謝申し上げます(以上全文)」

 

 
……投稿されるや否や、『安倍のイヌ』や『何様のつもり』といった呟きがトレンドに上がり、一般国民や野党議員、風評被害で甚大な損失を被っているライブハウス関係者やバンドマンの悲痛な叫びがTLに踊った。曲がりなりにも音楽ライターとして活動している僕個人としても腸が煮え繰り返る思いに駆られたのだから、音楽関係者の怒りはそれを遥かに凌駕することだろう。


では何故ここまでの炎上事態となったのか。その理由は主にふたつあると思っていて、ひとつは『今の自粛ムードを一考せずに投稿したこと』。そしてもうひとつは『ミュージシャン(星野源)に対する配慮の欠如』である。


話は変わって。日々猛威を振るう新型コロナウイルスの影響により、街の風景は一変した。東京では感染者が日々百数十人規模で増え続け、大阪駅周辺では人手が93%減。今や47都道府県中感染が確認されていない県は岩手県のみとなり、他にも緊急事態宣言の発令やオリンピック延期といった未曾有の状況下となっていることは、読者の皆様方も重々承知しているはずだ。


そんな中今最も叫ばれているのは、不要不急の外出を徹底して避けるように促された『外出自粛要請』である。外での勤務を主とする労働者や遊びたい盛りの若者……今や多くの国民が自宅で過ごしている。無論結果そうした行動はウイルスの蔓延を防ぐ『何よりの取るべき行動』でることを分かっているからこそ自主的に行われているもので、心の奥底で名状し難いフラストレーションを抱えつつも自分のために、ひいては他者のためにと我慢して堪え忍んでいる。


そうした状況で投下されたこの度の動画は、どことなく他人事っぽさをも感じさせる代物だ。おそらく動画投稿の意図としては純粋に「友達と会えない。飲み会もできない。ただ、皆さんのこうした行動によって、多くの命が確実に救われています」という安倍首相の記した言葉の通りで、感謝の思いを具現化している形なのだろう。けれども国民全員が疲弊する今、一国のトップが今出すべき動画では絶対にないし、そもそも外出自粛要請を声高に主張したのは総理自身だ。その総理が高級な自宅で優雅に時を過ごす動画を見せられて、僕ら国民は「これからも自宅で過ごします。ありがとうございます!」とは絶対にならない。こんなことは思ってはいけないことなのだろうが、どうしてもウイルス発生時における後手後手の対応や給付金を極力支払わない姿勢、3密を鶴の一声としてライブハウスや飲食店を苦境に立たせていたりと、総じて「いや、あなたのせいでこうなったんですけど……」との思いも抱いてしまうのだ。


そして何よりこの行為は、アーティスト(星野源)に対して一切敬意を払っていない行動に見えてしまう。僕個人としては、ここに一番苛立ちを覚えているというのが正直なところだ。

 


星野源 – うちで踊ろう Dancing On The Inside


そもそも星野源が“うちで踊ろう”なる楽曲を制作したのは、彼自身が日々を憂い、困難に直面する我々を何とか元気付けようと思案した末の行動である。


《うちで踊ろう ひとり踊ろう 変わらぬ鼓動 弾ませろよ/生きて踊ろう 僕らそれぞれの場所で 重なり合うよ》 と歌われるこの動画の意味するところは「こんな状況下だけど一丸となって頑張ろう」との思いである。そう。この楽曲で繰り返し使われる『踊る』との言葉は何もダンスではない。非日常が日常と化してしまった未曾有の状況だからこその、今生きている我々の様々な意味を込めた『踊る』なのだ。


だからこそ星野源はこの動画をほぼフリー動画として流した。同じミュージシャン、更には一般人も独自のアレンジを加えて自由に広めることを許可し、“うちで踊ろう”はみるみるうちに広がっていった。三浦大知が星野の音に合わせてダンスを踊るのも、ヒップホップアーティストがライムを当てるのも、岡崎体育がトライアングルを一切鳴らさず画面を凝視するのも、大泉洋がボヤキ続けるのも、その全てには自分独自の色と、何より強いリスペクトがあった。音楽を通して日本を励まそうという、強い思いがあった。笑って楽しんで、みんなで乗り越えていこうという内なるメッセージがあったのだ。


そうした流れを踏まえてこの度の安倍首相の動画を観てみると「今こういう動画が流行ってるらしいからやってみよう」との軽い気持ちをひしひしと感じてしまう(撮影・編集・アップとの時間が要る一連の流れは誰かの指示であるのは間違いないだろうし)。音楽がこのような形で利用されるのは本当に悔しいし、ミュージシャンはもっと悔しいだろうし、何より星野源自身はどのような思いを抱くのだろうか。ファン思いの彼自身のことだ。もしこの動画と安倍総理のコラボについて話を振られたときには笑い飛ばして話題を巧みに逸らすのだろうけれど、本心では望んでいないと思うし、モヤモヤした思いに駆られているのだろうと推察する。


別に僕は「安倍首相は休まずに仕事をしろ」と言うつもりは毛頭ない。安倍首相はこんな状況でもよくやってくれているし、頑張ってほしいと願っている。けれどもそんな中で国民に金を渡さない、保証なし、後手後手の対応などそうしたことに強い怒りを覚えてしまうのは事実であるし、正直国に対しては日に日に不信感が強まっている。少なくとも今回の動画で僕は世間の声は然程届いていないのだろうなとも、ミュージシャンなどの変わった職種の人々の思いはある程度軽んじられているのだろうとも思った。


こんな状況で行うのは、安倍内閣総理大臣がうちで踊っている動画を見せつけることではなく、一刻も早い終息と保証である。本当に。本当に。心からお願い致します。