キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

『普通』ってなんだ?

こんばんは、キタガワです。

 

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生き方が多様化しつつあるとは言え、未だ日本においては何がしかの同調圧力が点在している印象が強い。


……例えば学校生活。スポーツ万能で成績優秀、その滑らかな語り口を武器としてクラスの中心に君臨し誰にでも好感を振り撒く人間がいる一方、特別な理由もなく何故か迫害、嘲笑、苛めの対象となるなど常に憂鬱の海を漂流しながらスクールカースト最下層で泥を啜る人間もいる。


……例えば社会生活。誰にでも分け隔てなく接し、勤務数日後には仕事先の誰しもにスキンシップ、タメ口、イジられる等々距離感の近い関係性を無意識的に構築出来る人間がいる一方で、何をしても空回り。質問や世間話をしようものなら眉を顰められてしまい、希死念慮を抱きながら1日1日を堪え忍ぶ人間がいる。


果たしてそうした『普通と異端とを二分するもの』とは、一体何なのだろうか。


これは僕個人としての見解に過ぎないが、人間とは『産まれ持っての特徴』と『青年期の経験』、そして以上のふたつを踏まえての『真理』が組み合わさって形成されるものであると思っている。


まずは『産まれ持っての特徴』という部分から見ていこう。『蛙の子は蛙』という言葉があるように、どれだけ幼少期に両親に対する嫌悪があったとしても、ある程度自身が大人と呼ばれるようになった頃には「母に似ている」もしくは「父に似ている」との漠然とした性格的、嗜好的の一致に至る。これは後述するふたつの要因も比較するとどう足掻いても回避不能な長所、もしくはハンディキャップと言える。


よくメディアで語られる『親の七光り』や『二世タレント』との言葉が象徴するように子は大なり小なり、遺伝子レベルで何がしかの親の性質を受け継いでいる。これは外見的特徴のみならず、性格的な部分も含めての話である。当然これらの個性を自らの武器にするかはたまた枷とするのかは人によって千差万別だ。けれどもそれらの事柄が上手く自己解決出来ている人間とそうでない人間とでは、明らかに後の生活に差が出る。


中でも外見的コンプレックスは、誰もが学生生活において抱く悩みのひとつではなかろうか。『第一印象は見た目が9割』『○○っぽい』との言葉に象徴されるように、誰が何と言おうとベースは重要だ。無論この特徴は整形でもしない限り個性として受け入れるしかないが、それを明るく昇華出来るか否かもやはり遺伝によって継承された性格的問題も関わるため、難しいところである。


それ以外にも顔の一部分のパーツであったり声質や髪質、更にこれは声高に言うべきではないが神経精神疾患(吃音・チック等)といった事柄も、それが他者からすればどれだけ些細で軽んじられる事象であっても、直接的な固有の象徴として鎮座してしまう。


次に『青年期の経験』との観点から見ていこう。これは上記の産まれ持っての特徴に関連する部分もあるのだが、人間は集団で強制的に毎日を拘束される学校生活で、改めて他者と異なる自分を直視することとなる。勉強、運動、絵、部活……。一定数の人間と行う同様の作業を通じて判明する自分は様々だが、ある程度の年齢を経た今当時を思い返してみると、やはり自分自身の原点は青年期の経験によるところが大きいというのは、大多数の人間が感じる事象なのではなかろうか。


おそらくは壮絶なイジメを受けた者は日常を俯瞰(客観視)する力が身に付き、逆に日々友人らと賑やかに過ごしてきた人間には、高いコミュニケーションスキルと人付き合いのノウハウが備わったことだろう。これは趣味嗜好についても同様で、青年期に好んでいたことは20を超えた大人になっても然程変わらない。音楽や漫画、スポーツのジャンルであったり。料理への興味であったり。はたまた勉学の楽しさ(物事の深い部分まで興味を持つ)であったり……。


だからこそ、僕は声高に唱えたい。青年期の経験こそが、最も自己の精神性を築くものであると。


そう。良い意味でも悪い意味でも尾を引くのだ。青年期の経験は。金子みすゞの著書に「みんな違ってみんないい」という一節があるが、十人十色の特色を持っており、同時に自分自身を変えようともがこうが180度変化することは絶対にない。陰鬱な経験をした者はそれに相応しい内向的な人間に成り下がるし、ハッピーな経験を積んだ者は積極性の高い人間になる。


そして最後に。『上記の事柄を踏まえた真理』について記していこう。


ここまでつらつら綴ってきたように、人それぞれの個性は産まれながらにして構成され、青年期の生活を終える頃には今後何十年と生きるであろう自分のアイデンティティーはほぼ確立すると見て良い。よってそこから更に先……。具体的には成人になろうかという大学進学~社会生活の間には、自分という人間を9割方理解した上で、自分がどのような考え・行動に及ぶのかが肝となってくる。


そこで大きな障害となるのが、社会生活である。


ニート生活を送る人間以外は大学生でもフリーターでも正社員でも、基本的に何かしらの労働を経験する。そうした生活を繰り返す中で社会に順応できる『普通の人間』と周囲から黒い羊として蔑まれる『異端者』とが明確に区分されるのだ。


前述した話の繰り返しになるが、社会生活で異端者と見なされる人間は言うまでもなく、青年期の経験が良い形で転がらなかった類いの人間である。しかしながらそうした人間には決まって画力・文才・動画制作等『社会生活以外で光るスキル』も備わっているものなのだが、日々を生き延びるためには金が要る。そして金を手に入れるためにはまずもって最低限の社会生活……つまりは人間関係の構築が必須である。ここで自分自身を十分理解し、その結論として「自分は人と関われない」と痛感している人間にとっては、『金を手に入れる』という必要最低限の行動(労働)に多大なストレスを感じることとなる。


今記事を読んでいる読者の方々にとっては痛烈に感じ入ることだろうが、人間社会は酷く残酷であり、波長を合わせなければ直ぐ様立場が危うくなる。これは興味のない人とは離れれば良いという学校生活とは全く異なる代物で、総じて今までの人生で培われてきたコミュニケーション能力や雑談力、人間経験値いかんで大きく左右される。


……そこで、今までの話に戻る。僕は人間には産まれ持っての性質があり、それを踏まえて青年期に様々な経験を積み、20歳になる頃には9割方の自分が出来上がると述べた。とどのつまり産まれながら何かしらのハンディを抱えていて、更には青年期にトラウマチックな経験を大量にし、そんな自分自身に絶望しながら社会生活に足を踏み入れた者は、自動的に詰むのだ。


そう。冒頭で記した『普通と異端とを二分するもの』の正体は非常にシンプル。要するに『社会生活が当たり前に行える人間=普通』、『行えない人間=異端』ということなのである。だからこそ世間一般的に言われる『異端者』は社会生活ではない、別の道を歩む以外に道はないのだ。


今やYouTuberやブロガーなど生き方は多様化し、ある程度異端者に対する救済措置的な試みは成されている。しかしながらやはり正社員=安定、非正規労働者=不安定とのイメージは今も根強く残っており、社会や集団生活で生きられないと悟っていながらそれでも社会生活で働くしかない人間は一定数存在していて、彼らは日々一般的普通との乖離に悩みながら、騙し騙し生きている。


いろいろと書き殴ってきたものの現実は残酷で、結局は自分の手で理想を掴み取るしか道はない。様々な境遇を辿ってきた全ての人間に幸あれと願いつつ、自身の尊敬するアーティストの一節でもって、今記事を締め括ろうと思う。


《涙こらえて立ちつくす 人の背中をそっと押してやる/どんな時だって優しい顔 そういう人になりたいぜ》

《めんどくせぇなって頭掻いて 人のために汗をかいている/そんで「何でもねぇよ」って笑う そういう人になりたいぜ》

 


amazarashi 「そういう人になりたいぜ」 Acoustic