キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

世界が変われよ

「この仕事を辞めたいと思うんです」。そうAさんから伝えられたのは、3月も終わりに差し掛かろうという頃だった。「本当に申し訳ないんですけど、僕にはこの仕事が向いてないと思うので」と語る目と口調で、どれだけのストレスを彼が抱えていたのかは、想像に難くなかった。

思えば配属当初、僕はAさんの教育担当としての立場だった。期間にして数ヶ月間……ただその間はある時は真面目に、またある時はフランクに話してストレスフリーな関係性を築いてきた自負がある。彼は極めて生真面な性格で、出勤時に「おはようございます!」と一言放つ際にも事前に呼吸を整えているのを知っているし、物が所定の場所から少しでも動いたら元に戻すし、退勤前には決まって長文の引き継ぎを渡してくれた。そんな彼の真面目さは個人的には評価に値するものだと思っていて、お陰で大きなトラブルもなくここまで来れているのは事実だ。

反面、Aさんには突発的な状況になるとパニックに陥るきらいもあった。備品が足りなくなる。お客さんから強い口調で言われる。シフトに入っているはずの新人が来ないなど……。コミュケーションが上手く取れないこともあり、僕にその情報が回ってくる際には起承転結が失われているので「結局どういうこと?」となる場面も多々あった。ただそんな彼の性格も、見方を変えれば真面目さの表れである。『何かがあったら困るから万全を期す』という彼の姿勢は、素晴らしいものだったと今でも思う。

しかしながら今年始めの辞令による僕の配置換えを境に、Aさんとの距離は大きく開くこととなった。これからは僕が移動することで彼が組織の中心になると共に、ほとんど顔も合わせなくなる……。そのことに一抹の不安を覚えなかったこともないが、決まったことは仕方がない。僕は何かあれば連絡するよう伝えつつ、「後のことはAさんに任せた!」と組織を離れ、今に至っている。

そんな久方ぶりに会ったAさんから放たれたのが、冒頭の職の意向だ。まともに合わなくなってから4ヶ月が経ち、責任は大きく変わった。新人の育成も発注如何についても、全て彼に委ねられている現状だ。ゆえに退職理由として「この仕事が向いてないと思う」と告げられた際も、僕は軽率に「辞めるのはいつでも出来るからもう少しやってみたら?」と簡単な言葉で片付けてしまい、彼は「分かりました……」とその場を去っていった。ところがこの一件以降、彼は僕に退職について一切話さなくなった。だからこそ、さして彼が「辞めたい」と語ったことが大きな問題だとは思っていなかったのが正直なところである。

僕の知らない問題が表面化したのは、それから少し経ってからのこと。ここ数週間で、Aさんの配属先に入った新人がどんどん辞めていったのが事の発端だった。退職理由はいずれも「この仕事が向いてないと思ったから」……。奇しくも彼が僕に語った内容と、全く同じものだ。そこで僕はその日が最後の出勤だった新人に対して話す場を設け、詳しく話を聞いた。するとその新人は一言、何かを怖がるような目線で「パワハラがあるんです」と語ったのだ。

どうやら首謀者は、僕が移動になった時期にちょうど入ってきた人物らしかった。聞くに彼は『仕事はスピードが命!』をモットーに掲げる人間らしく、あらゆる出来事を瞬時に判断して速さに繋げる、そんな勤務姿勢とのことだ。僕はAさんとは一度だけ顔を合わせた身で、とても仕事が出来る印象しか受けなかった。ただ僕というストッパーがいなくなった直後から、特に仕事が遅いAさんに対して説教や人格否定を繰り返していたらしく、その鬱々とした雰囲気に耐えかねて新人が辞めていく……というサイクルが出来上がっていたのだ。

新人から話を聞いた直後、僕はAさんに話を聞いた。「あの話から時間経ちましたけど、最近どうですか?」と。彼は視線を宙に彷徨わせつつ「いや、大丈夫です」と語り、自分の仕事に戻っていった。居ても立っても居られなくなり「◯◯さんとはどうですか。上手くやれてます?」と探りを入れても「◯◯さんは良い人ですよ」と話すのみ。これなら腹を割って話すだろうと訴えた飲みの誘いも全て断られたため、そこで会話は終わった。……ただ、僕は知っている。彼の退勤時間がこれまでとは比較にならないほど遅くなっていること。そして顔色が、まるで死人のように悪くなっていることを。

長く生きれば生きるほどに、世の中は搾取する者とされる者の2種類がいて、その差は大きく離れているように思う。それこそ義務教育の時期にも『陰キャ・陽キャ』の括りはあったけれど、大人になって社会に出て30歳手前にもなると、世渡りが上手く出来なかった人間は絶望的に割りを食う。空白期間が長い人間が雇用され辛くなるように、この年になってもなおコミュケーションが取れない人、意思を伝えられない人……総じて『人からナメられやすい人』はあらゆる形で社会から抹殺されてしまう。たとえその裏にどんな理由が隠されていたとしても、である。

そしてその当人が明確なSOSを発せない場合、その答えはひとつで、それは『現状維持』しかない。事実Aさんは今でも黙々と仕事を続けていて、該当の人物からの説教は続いている。僕が様子を見に行くと気配を察してか、恫喝がピタリと止んでしまうのは策士だなあとも思うが、とにかく……。Aさんが一切の真相を話さず、その裏で不条理な目に遭っているのを見ていることしか出来ない現状は、前任者としても辛いものがある。人には前向きに生きる権利があるのだから、どうにかしてあげたい。ただ、そうして画策しながらも動かない毎日は、ある種のパワハラの加担にも繋がるのではと思ったりもする。

粗品 - サルバドルサーガ - YouTube