キタガワのブログ

島根県在住。音楽ライター。酒浸り。

【ライブレポート】坂口有望『聴志動感』@YouTube

こんばんは、キタガワです。

 

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世界各国で猛威を振るう新型コロナウイルス。記事執筆時点で、死者数は全世界で3万人を超えた。なお現在の各国の動きとしてスペインのサンチェス首相はテレビ演説で不要不急の労働禁止を要請する考えを表明。イタリアでは医療崩壊が叫ばれるのみならず、ここ日本においても日々十数人にも及ぶ感染者が確認され、東京オリンピック延期の正式な決定が成されるなど、終息の兆しは未だ見えていない。


そんな中多大な影響を被っているのが、ライブハウスを始めとするエンタメ業界だ。当初自粛は大規模なイベントに限定して呼び掛けられていたが、次第にライブハウスで感染者の確認されたことやコロナウイルスにおけるクラスターになり得る状況として密閉・密集・密接という所謂『3つの密』が報道番組等で取り上げられるようになり、今では日々拡大し続けるコロナウイルスの蔓延とそうした世論の同調圧力に屈するかのように、大小問わず多くのイベントが中止・もしくは延期の措置を講じざるを得なくなった。『自分』から進んで『慎む』ことから自粛と名付けられた自粛という言葉は今や、刃物にも勝る足枷の言葉としてエンタメ業界に暗い陰を落とし続けている。


そうした現状を踏まえ3月某日、このような状況下でも音楽を愛する人々に安全に、そして安心してライブエンターテイメントを届ける方法がないかを考え「今だからこそ、心3(試み)る」のコンセプトのもと敢行されたライブイベント、『聴志動感』が開催された。


『聴志動感』は土日の2日間に渡り新進気鋭のアーティストが画面越しにライブを繰り広げる、言わばインターネット版の音楽フェスの体を成したイベントである。配信中にはSuper Chatによる所謂投げ銭の受付も行われ、集まった収益はイベントの制作費を差し引いてアーティストの支援、ひいては音楽業界へと還元される形を取り、更にはアーカイブも残さず徹底して生のライブをそのまま画面越しに届ける『聴志動感』は、まさにこうした未曾有の状況であればこそ至ったアーティストにとってもリスナーにとっても救いの手と言うべき試みであったのだ。


当然の如くスタジオには観客はおらず、転換の際は出演者の今後のライブ予定に加えて『換気中』とのテロップが交互に挟まれ、スタッフも間隔を空けひとり残らずマスクを着用するという万全の態勢でもって配信が行われた。背後にはリアルタイムのコメントがひっきりなしに流れており、この日この時間にしか起こり得ない興奮が沸々と高まる感覚にも陥る。


16時過ぎ、この日3番手としてカメラの前に姿を現した坂口有望(さかぐちあみ)。去る2月19日にニューアルバム『shiny land』を発売した彼女は、ニューアルバムを携えて全国ツアーを回る予定であった。しかしコロナウイルスの感染拡大を防ぐため、やむなくツアー全公演の延期を決定。そう。本来であれば現時点でツアーファイナルを残すのみとなっていたはずの坂口は、一切人前でライブを行うこと叶わず、この場に立っていたのだ。転換の動画から坂口を映すカメラに切り替わっても、言葉を発さず真剣にチューニングを始めるその姿は自然体にも、内なる思いを圧し殺しているようにも見えた。


そしておもむろにギターを爪弾き「始めまして、坂口有望と言います。……歌います」と語って奏でられた1曲目は、“おはなし”。

 


坂口有望「おはなし」Music Video


《いつもと同じ時間に/流れるニュースは/悲しい出来事ばかりで/少し真面目にみたんだけど/心の奥のどこかで/そっと思っているんだ/あぁ 私じゃなくてよかった/あぁ ここじゃなくてよかった》


言葉の一言一言を噛み締めるように、高らかに歌う坂口。坂口の良く通る抜けのある歌声を伴ったパフォーマンスも当然素晴らしいものであったけれども、何より、あまりに直情的なその歌詞は今のコロナウイルスに辟易する現状を体現するかの如く、絶大な説得力を纏って響き渡っていく。


最後に《いつもと同じ毎日は/あたりまえなんかじゃなかったって/私はそっとつぶやいた/これはそんなおはなし》と絵本におけるストーリーの結末を語るが如く締め括られた“おはなし”。この楽曲が制作されたのは14歳の頃で、この時期の坂口はまだレーベルにも所属せず、地道にストリートライブを行っていた。そのため“おはなし”はコロナウイルスを表しているわけではなく、あくまで別の事柄をモチーフにしていることは言うまでもない。しかしながら、コロナウイルスの蔓延によってさながら絵本の世界にあるような世界的な大恐慌が現実化している今だからこそ、“おはなし”は明らかな別の側面を伴って響いていた。


歓声も拍手もない独特な環境の中チューニングの微調整をしつつ、その後はひとしきりのMCへと以降。


「改めまして、大阪出身19歳、シンガーソングライターの坂口有望です。今日は初めて無観客ライブというものに今取り組んでおりまして。私ずっと……中学二年生の時にライブハウスに立って、凄くライブというものが大好きで。ツアーも延期になってしまって、ずっと待っててくれたお客さんにやっとこうやって、こういう機会を頂いて。(ライブを)観せれる嬉しさっていうのももちろん一番あるんですけど、私自身が凄い、ライブがずっとない日々で。こうやって今オンラインではありますが、たくさんの人の前で歌えてるということが私にとって凄く嬉しいことです」


「今日企画してくらはったスタッフさんに改めて感謝を出来るように、最後まで心を込めて歌っていきますので、画面の前の皆さん、短い間ですが楽しんで帰って……ちゃうわ。楽しんでください!」


今回のライブは先日発売されたセカンドフルアルバム『shiny land』に加え、2018年発売のファーストアルバム『blue signs』収録曲を軸としたセットリストで進行。更に原曲においてはエレキギターが先導するロックナンバーとして鳴らされていた楽曲は良い意味で誤魔化しの効かない新機軸の主張を繰り広げ、楽曲の各所では緩急を付けたりと、全曲通して弾き語りならではのアレンジで再構築。総じてバラードは説得力を増し、アッパーな楽曲は新鮮味を感じさせる作りとなっていた。

 


坂口有望 『LION』MV(Short)


“LION”前には「今こんな異常な事態に、全世界がぶち当たっていて。その中で頑張ってるみんなのことを、何かこうして動画を通して勇気づけられたら、それは本当に、音楽の力かなって思います。乗り越えていきましょう」と語っていたが、前述した通り《わたしじゃない わたしのせいじゃない/誰でもない 誰かのせい 全部全部》とする“紺色の主張”然り《わたしを笑い飛ばした陰を/風が笑い飛ばす日を待とう》と前を向く“LION”然り、このような状況に陥っている『今』に対してのメッセージを体現するような歌詞にも聞こえ、心を震わせる。


ライブは「ぜひまた今度は笑顔で会えるように。……いや、絶対会いましょう」と語って始まったラストナンバー“東京”でもって、40分に渡るライブは幕を閉じたのだった。

 


坂口有望 『東京-Studio Live Ver.-』(Short)


作品をリリースし、ツアーを回る。……一概に全てに当て嵌まる訳ではないにしろ、大半のアーティストはそうした形で音楽活動を行っている。無論坂口自身も例に漏れず、活動当初から繰り返し同様のサイクルを経て、シンガーソングライターとしての道程を歩んできたひとりだ。けれどもコロナウイルスの影響によりニューアルバムに冠されたタイトルとは対極に位置してしまった今、数ヶ月前と寸分の狂いもない活動を行うのはほぼ不可能。それはライブツアー延期の決断を下した坂口自身も、重々承知している筈である。


坂口が身ひとつで挑んだ今回のライブは、これから控える坂口のツアーとは趣を異にするものだ。しかし弾き語りという音楽を奏でる上で最小の形を貫き、今とリンクする楽曲が並んだ今回のセットリストを鑑みても、今回のライブにあたって彼女自身が並々ならぬ決意を抱いて挑んでいたことの何よりの証明であったのではなかろうかとも思う。


ライブ終了後、個人のツイッターにて「40分間、間違いなくわたしがここ最近で1番生き生きとしてる時間だった、ライブがすき、ライブがすきです」と綴った坂口。コロナウイルス終息の目処は未だ立ってはおらず、音楽イベントが元の輝きを取り戻すのが果たして何ヵ月先なのかは分からない。だがこの未曾有の事態が去った暁には、必ずや晴れやかな景色が広がっていることだろうと、『聴志動感』にて画面越しに映った随分と久方ぶりに鳴らされる彼女の音楽と笑顔を観て、改めてそう確信した次第だ。


【坂口有望@聴志動感 セットリスト】
おはなし
紺色の主張
あっけない
夜明けのビート
好-じょし-
radio
LION
東京

ナンバーガール初の地上波生ライブは、どこまでもナンバーガールだった

こんばんは、キタガワです。

 

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「全国のフジテレビジョンネットワークを御覧の皆さん、福岡市博多区からやって参りました。俺たち、ひょうきん族!……違うか。ナンバーガールです。いつまで経っても、やめられないのね……。おかみさーん!Do it!」


これは開幕の冒頭、ナンバーガールのフロントマン・向井秀徳(Vo.G)により語られた言葉の全貌である。ナンバーガール特有の緊張感とは対照的に、どこを切っても意味不明なお馴染みの向井節に何故か泣きそうになりながら、漠然と「この後のライブは一生忘れないだろうな」と思った。そしてそれは寸分の狂いもなく、現実のものとなったのだった。


……日々猛威を振るう、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)。世界各国で終息の兆しが見えない中、少しでも多くの感染拡大を防ぐため大半のライブイベントは中止もしくは延期となり、音楽業界は未曾有の窮地に立たされた。そして3月4日、主要コンサート制作会社含むエンタメ関連会社は苦難の続く現状を受け公式声明を発表。そこに書かれていたのは、今現在におけるエンタメ業界のリアルな心境とエンターテインメントを愛する人々への思いと、そして先の見えない今を共に堪え忍び、いつか再び元の環境に戻ることを切望する『春は必ず来る』とのハッシュタグであった。


日増しに音楽への距離が遠くなっていくフラストレーションがじわじわと肥大化する最中、去る3月21日に『緊急生放送!FNS音楽特別番組 春は必ず来る』なる特別番組が放送された。これは『緊急生放送』との副題に顕著だが、コロナウイルスの影響で音楽へ触れる機会が減少傾向にある今だからこそ「少しでも音楽の力で元気を取り戻そう」とのコンセプトのもと企画された番組である。


番組内では『ライブが中止・延期となり直接的に被害を被ったアーティスト』と『春を題材とした楽曲』のふたつを主なメインテーマに据えて進行。事実アーティストのパフォーマンス時には本来予定していたライブの中止・延期を余儀なくされた事実がテロップに映し出され、DA PUMPの“桜”然りWANIMAの“春を待って”然り、セットリストもとりわけ春を題材にした楽曲が並ぶなど、総じて音楽業界の今と未来を一考させるような流れを意図的に組んでいたように思う。


そんな中一際異彩を放っていたのが、解散から17年の時を経て再結成を果たした、我らがナンバーガールである。


19時から22時、計3時間に及んだこの番組。アイドルや流行歌、果ては映画音楽やミュージカルも並ぶ多種多様なラインナップの中において、ナンバーガールの存在はあまりにも浮いていた。もちろん彼ら自身も全国ツアー『逆噴射バンド』の一部公演が延期に追い込まれ、被害を被ったアーティストの一組ではある。だが彼らは今回の出演者の中においては唯一無観客のライブ配信を敢行し、画面越しにではあるにしろライブの熱量をお茶の間に届けたことや、彼らのタイムテーブル上で公開されていた演奏曲が“桜のダンス”ではなくもはや春を完全に追い抜いて《気づいたら俺はなんとなく夏だった》とうそぶく“透明少女”であったこと、そして何より地上波に出るようなバンドイメージが皆無であったことからも、今回の起用は異物感漂うものであったのは間違いなかった。


時刻は20時を過ぎ、CMに入ろうかというその時、突然カメラが切り替わった。そこに映し出されたのはリアルタイムのZepp Tokyoであり、ステージ上では4人の男女が入念な準備を始めている。この日ライブハウスで生演奏を披露するのはナンバーガールのみ。よってこの後CM明けに演奏するアーティストはナンバーガールであると、ほぼ確約された瞬間であった。言うまでもなく、ナンバーガールの地上波における生演奏は初。けれども彼らのパフォーマンスに内なる期待が高まる一方で、インタビューやライブ等で突拍子もない言動を頻発させる向井を幾度となく目に焼き付けてきた身としては鬼が出るか蛇が出るか、緊張の面持ちで待機せざるを得なかったというのが正直な気持ちとしてあったのも事実として存在した。


そしてCM明け、静まり返ったZepp Tokyoにて、向井の口から放たれたのが、冒頭に記した口上である。たとえ地上波であろうとも自然体を貫く、我々が愛してやまないナンバーガールがそこにいた。


そんな向井による荒唐無稽な流れの果てに田渕ひさ子(G)によるお馴染みの金属的なギターリフが響き渡り、向井がそれに合わせるように力強いカッティングでテレキャスターを掻き鳴らす。そしてアヒト・イナザワ(Dr)の「1.2.3.4!」に近い、しかし明確に数字を発語しない独特のカウントと共にドラムが打ち下ろされ、中尾憲太郎(Ba)の低音ベースがサウンド全体を牽引するように鳴らされる。かくして血沸き肉踊る狂乱の宴は、幕を開けたのだった。

 


NUMBER GIRL - 透明少女


普段は決まって押しつ押されつの蒸し風呂状態となるフロアには観客はゼロ。代わりに多数の撮影クルーが待機し、彼らの鬼気迫る演奏に合わせ忙しなく動き回っている。それはかつてYouTube上で配信された無観客ライブの延長線上にそのまま立つような、あまりにも冷たく、どこか寂しさを覚えるライブであった。けれどもそうした欠落的なZepp Tokyoの光景は彼らの他の楽曲の言葉を借りるならば『冷凍都市の暮らし』を体現するかのようでもあり、熱い中にも冷たさが残るこの日の独特の雰囲気に一役買っていたように思う。


結果、彼らのライブはどこまでもナンバーガールだった。


演奏中、右上に表示されたテロップには常に「伝説のバンドが音楽ファンのために緊急出演!!」との文字が映し出されていた。おそらく番組出演自体を打診したのは、番組サイドなのだろう。しかしながら再結成がアナウンスされた際の向井による「2018年初夏のある日、俺は酔っぱらっていた。そして、思った。稼ぎてえ、とも考えた。またヤツらとナンバーガールをライジングでヤリてえ、と」とのコメントにもあるように、おそらく向井は(他のメンバーの思いは定かではないにしろ)、そうした思い以上に自分自身の「爆音でロックを鳴らしたい」という突発的に抱いた強い思いを第一義として快諾し、出演に至ったのだと推察する。


……彼らの演奏が始まる前には、今のライブハウス、及び大規模イベントが置かれる現状をつまびらかにしたVTRが流れた。ナンバーガールの演奏終了後にはSNSに、この番組でナンバーガールの存在を初めて知った人たちやかねてよりのファンによる称賛の声が踊った。けれども向井が中尾と向き合って演奏する一幕も、向井のシャウトに似た絶唱も……。今回テレビの向こう側で繰り広げられたそれは本来生でしか体感出来ない、言わばライブ特有のパフォーマンスだ。そう。コロナウイルスによりライブ自粛のムードが漂う今現在は要するに、そんなライブでしか体験できない唯一無二の興奮と感動が失われているのと同義でもある。


3月も終わりに差し掛かり、気付けば春の到来も近付いている。ライブが今が四季で言うところの冬であるとするならば、番組内で言われていた春とはきっと、コロナウイルスが終息の兆しを見せ、ライブイベントへの悪しき風潮が一旦の落ち着きを取り戻すことを差しているのだろう。そして彼らが今回演奏した“透明少女”における《気づいたら俺は夏だった風景》はきっと、その更に先……。具体的にはコロナウイルスが蔓延する以前のようにライブイベントが完全に戻り、全ての音楽ファンが笑顔で日々を送る日常に他ならない。


結局彼らは最後まで、自身の胸の内を語ることはなかった。普段のライブではハイボール、もしくはビール缶を高々と掲げながら「乾杯!」と語って颯爽と去る向井は、画面が生放送会場へと切り替わるまで、カメラの方向をじっと見つめていた。彼の抱える胸の内は最後まで分からないままだったけれども、それは回り回って、非日常の空間が日常から消失した欠落感染を拡大するクラスターのひとつとして後ろ指を指されるライブイベント全般への、何よりも強いメッセージであったのではなかろうかと、そう思わずにはいられなかった。

[後編]珍しい楽器を使うアーティスト10選

こんばんは、キタガワです。


さて、今回は前回記した『珍しい楽器を使うアーティスト10選』の後編をお届けする。テスラコイルやオープンリールを紹介した前回も特殊な楽器が多かった印象だが、後編も負けず劣らず。パンチの効いた楽器の宝庫となっているため、気になった方は是非動画をクリックし、その独特な音像に触れてみてほしい。


それではどうぞ。

 

→前編はこちら

 

 

POLYSICS(使用楽器:ボコーダー)

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サンバイザーがトレードマークの電子音バンド、POLYSICS。彼らのサウンドの主軸を担っているのは言わずもがな、シンセサイザーと打ち込みの音像であるが、彼らの魅力を更に引き立てるのが、多くの楽曲で使われる『ボコーダー』の存在だ。


ボコーダーとはボイス(声)とコーダー(IT用語)の略であり、自身の歌声をロボットの如き機械音に変化させることが可能なエフェクターのこと。下記のMVでも描かれているように、POLYSICSのライブでは決まって向かって左側に通常マイク、右側にボコーダーを連結したマイクを配置し、楽曲ごとに地声と機械声をスイッチした楽曲展開を披露する。


昨今の音楽業界ではSEKAI NO OWARIの“Dragon Night”然りPerfume然り、高音の機械声サウンドを武器とするアーティストも多い。しかしながら彼らが用いるそれはボコーダーとは少し趣の異なる『オートチューン』と呼ばれ、あくまでも地声をメインに加工するものである。POLYSICSのボコーダーはそれとは違い、老若男女誰が歌ってもほぼ同じ声になるというのがひとつのポイント。もちろんこれらはPOLYSICSの代名詞の電子音に埋もれないようにした結果であることは言うまでもなく、事実POLYSICSは結成当初から現在に至るまで、同じ系統のボコーダーを使い続けている。なお以下のMV“MEGA OVER DRIVE”にてハヤシ(Vo.Gt)が弾く謎のキーボードはショルキー(ショルダーキーボード)と呼ばれ、こちらもレア楽器である。

 


POLYSICS 『MEGA OVER DRIVE』

 

 

Red Hot Chili Pipers(使用楽器:バグパイプ)

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フジロックフェスティバル2019で一躍脚光を浴びた、スコットランド出身の謎のインストバンド。彼らの名はレッドホットチリパイパーズと言い、かつてフジロックの出演者が発表された際には某有名ロックバンドRed Hot Chili Peppers(ちなみにレッチリはこの年、別の日本フェスへの出演が内定していた)との名前の類似性が大いなる誤解を招き、SNS上では「フジロックもレッチリが!」とのツイートが相次いだ。無論蓋を開けてみれば彼らの正体は『ペッパーズ』ではなく『パイパーズ』であり、逆にこの騒動が彼らの名前を広める貴重な機会となった。


その編成はギター、ベース、ドラムといったスタンダードな楽器に加えてパーカッションやマーチングドラム、果てはトロンボーンとシンセサイザーまで織り混ぜた大所帯っぷりであるが、中でも一際目を引くのが『バグパイプ』なる民族楽器だ。バグパイプとは平たく言ってしまえば、笛版のアコーディオンだ。吹いた息を循環させて音を鳴らすもの。そんなバグパイプの特徴としては雅な音像と消費カロリーの高さであろう。前後編通して言えることだが、なぜ国内外に多くのアーティストがいるにも関わらずレア楽器を演奏しないのか、最も大きな理由として挙げられるのは、その難易度の高さと楽器管理の大変さにあると思うのだ。事実バグパイプの砂漠地帯を思わせる音はオリジナリティー溢れるものであるが、笛の全体に息を与えなければならないため、演奏の難易度は極めて高い。


更にはバグパイプを取り扱う店というのは国内外含めてほぼ存在しない。それこそ彼らが拠点とするスコットランド以外の場所で長期間滞在するとなるとデメリットも出てくる。だからこそ彼らは海外を飛び回り一夜限りのパフォーマンスにしているのだろう。


なお彼らの音楽は基本的には他者のカバーであり、オリジナル楽曲は少な目。具体的にはAvichiの“Wake Me Up”やQueenの“We Will Rock You”、Deep Purpleの“Smoke On The Water”などがライブの定番曲となっているが、バグパイプの存在も相まって言い意味で原曲とは似ても似つかないサウンドに昇華。今では彼らを名指ししてカバーを熱望する声も多いことからも、今後彼らの名前の存在は広く知れ渡ることになりそうだ。

 


Red Hot Chilli Pipers cover Avicii's Wake Me Up for the Radio 1 Breakfast Show

 

 

住所不定無職(使用楽器:ツインネック)

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数年前、ロックシーンに彗星の如く現れたポップの異端児、住所不定無職。一時は無名ながらrockinon主催のカウントダウンジャパンのトリを務めるなど大躍進を果たしたが、ある時期を境に突如音楽シーンから失踪。そして現在は住所不定無職の既存メンバーに2名の男性メンバーを追加した新バンド『Magic, Drums & Love』を結成し、更なる音楽を探求し続けている。なお住所不定無職は現在も活動休止及び解散については明言しておらず、ユリナ(ギターとか)は「脱退とか解散とか結構どうでもよくて、住所不定無職は凄いいい曲たくさんあるからライブやりたいなと思ったし、今はMagic, Drums & Loveてゆー新しくはじめたバンドにすごく夢中だからそっちでライブしてくだろうし」とツイッターで語っている。


そんな彼女らが結成当初より話題になっていたのが、そのヘタウマな演奏スキルと、『ツインネック』なる楽器であった。


ツインネックとは持ち換えずとも異なる楽器を弾くことが出来る、端的に表すならばギターとベースをそっくりそのまま繋ぎ合わせた楽器である(なおギター+ギターならツインギター、ベース+ベースだとツインベースと呼ばれる)。住所不定無職は当時スリーピースであったため、他メンバーがギターとドラムであることから基本的に誰かはベースを弾かなければならない。けれども前述の『ギターとか』なるパート説明に顕著だが住所不定無職にはこれといった演奏楽器は存在せず、メンバー全員が曲ごとにパートチェンジするというあまりに異端なスタイルであることから、必然的にギターとベースを時間差なしに両立する人物を補う必要があった。そこで白羽の矢が立った楽器が、ギターとベースを混在させたツインネックなのだ。


けれどもツインネックは当然の如くギターとベースの計2回のチューニングが必須であり、何より重い。ほとんどのバンドがツインネックを使わない理由はここにあり、大半は「じゃあギターとベースを別々に入れ換えて使えば良い」との結論に至るのだ。だが彼女たち自身が特段演奏に重きを置いておらず、多少のチューニング狂いは気にしないスタイルのため、ツインネックはまさに彼女たちの初期衝動を極限まで突き詰めた形であろうとも思う。なお、後に住所不定無職はメンバーを増員。その追加メンバーの担当パートはギターであるが、頑としてツインネックを廃さないのは彼女たちのオリジナリティーを確立させているようでいて、好感が持てる。今後もライブで是非とも使ってほしいとは思うのだが、正直「じゃあ別にツインネックいらないのでは……」との気持ちにも陥ってしまう。難しいところだ。

 


住所不定無職 / I wanna be your BEATLES 【PV】

 

 

THUNDERCAT(使用楽器:6弦ベース)

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海外ベースシーンの重鎮、サンダーキャット。この日本でもアルバム『DRUNK』がヒットを飛ばしたため、衝撃的なジャケ写に見覚えのある人も多いのでは。


そんな彼のプレイを支えているのは、もはやトレードマークと化した『6弦ベース』である。言うまでもなく、通常ベースは4弦で作られる。その理由はベース自体がバンドの全体像を支える役割を主としているためであり、弦がひとつ増えるということはベースの音の高さが更に高くなるのと同義なのだ。それはすなわち低音を武器とするベースの売りが消え去ってしまうことに他ならず、だからこそ大半のベーシストは初心者ベテラン問わず、4弦を基本とする(多弦ギターが少ないのもほぼ同じ理由)。


しかしサンダーキャットは、ベースをタッピング奏法で弾き倒すどころか、下手すればギターより高い音を鳴らすという完全に一般的なプレイを逸脱した形を取る。彼が世界各国でベースヒーローとして崇められる理由はそこにあり、そんじょそこらのベーシストでは絶対に辿り着けないそのバカテクぶりは、彼特有の最強の演奏と言っても過言ではない。なおこの神業で繰り出されるサウンドがロックではなくジャズやファンクというのも意外性たっぷりで面白い。


彼は現在においても立つステージにはほぼ拘らないらしく、各地のフェスでは最も小さなステージで若手と同じ舞台に立ち、軽やかにライブを行うこともしばしば。その明るいキャラクターも人気の秘密だが、かなりの親日家としても知られており、加えて一度ライブを行えば雰囲気が一変するというサンダーキャット。近々ニューアルバムを携えた来日も控えており、あのプレイをバカテクぶりを目撃出来る日も近いのでは。

 


Thundercat – Black Qualls

 

 

星野源(使用楽器:シンセパッド)

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今や世間に知らぬ者なし。一流アーティストの仲間入りを果たした星野源だが、彼の楽曲にもレアな楽器が使われている。


その楽曲とは朝の連続テレビ小説『半分、青い。』に起用され、紅白歌合戦でも披露した“アイデア”である。壮大な幕開けから耳馴染みの良いサビに至るまでポップを地で行く“アイデア”は一見、軽やかなポップソングにも思える代物だ。けれどもその裏側を紐解いてみると彼は前作“恋”の大ヒットをきっかけにマスメディアに追われる身となったことから精神的に疲弊し、明と暗をしっかり分けた楽曲を作ろうと臨んだのが“アイデア“であると語っていた。


そのため“アイデア”では5分少々の短い時間の中において、大きく艶やかな一面と鬱々とした一面のふたつの展開に分けられる。そして今回取り上げるレア楽器『シンセパッド』が用いられる箇所は所謂鬱々とした一面の部分であり、具体的には1番のサビが終わり2番のAメロに差し掛かった頃合いとなる。


シンセパッドとは主にPC上で事前に入手可能な音の数々をそれぞれのパッドに割り振り、実際に触って音を出す楽器だ。“アイデア”ではパーカッションの音をプログラミングしているためにドラム的ポジションを担っているが、シンセパッドに取り入れることの出来る音の種類は様々であり、中には猫の鳴き声や叫び声、シンセサイザーの音色、果ては自身が録音した短音など、理論上『音』であればほぼ何でもセッティングすることが可能だ。


そんな万能楽器・シンセパッドだが、その面の数のみしか音がセッティング出来ない点と、音圧がなく平坦なサウンドになってしまう点には注意が必要。だからこそライブで使用される際には「ドラムの代わりにずっとシンセパッド使います」という手法はほぼ成立せず、例えばCD音源において波の音が鳴っていたり、話し声が流れているような箇所をライブで再現する上で飛び道具的に使われることが多い。よって基本的にシンセパッドを配置する箇所は、ドラムを担当する人物の横である。


なお“アイデア”にてシンセパッドを担当する人物は指で押して音を鳴らしているが、これは直接押すことが出来れば何でも良いため、見映えを良くするためにドラムスティックで叩くバンドマンが多い。けれどもこのシンセパッド、叩く箇所が少しでもズレると別の音が鳴ってしまうことに加えて全ての音の面を把握することが必須事項となるため、習得するにはかなりの時間を要する。シンセパッドは全国各地の楽器屋にはほぼ必ずある楽器なので、気になった方は実際に体験してみてはいかがだろうか。

 


星野源 – アイデア (Official Video)

 

 

……さて、いかがだっただろうか。以上が『珍しい楽器を使うアーティスト10選』の全貌である。


前編でも触れた話ではあるが、やはり様々な音楽に触れていると「同じような音が多いな」との思いを抱いてしまうことは多々ある。そしてその思いは実際にライブや音楽番組を観ると、瞬時に確信に変わる。何故ならOfficial髭男dismやKing Gnuなど、世間一般的に売れたと目されるほとんどのアーティストの演奏楽器は完全に固定化されているからだ。ギター、ベース、ドラム……。一風変わったアーティストでもキーボードやシンセサイザー、管楽器のパートが加わる程度で、良く言えばお馴染み。悪く言えば面白味がない。


何故レアな楽器を用いないのかと問われれば、そこには演奏する上で大きな障害となり得る確固たるデメリットが存在するためである。事実今回紹介した楽器はいずれもスペースが大きい、セッティングに時間がかかる、物理的に重いなどのデメリットが存在する。だからこそ普段見掛ける機会もないし、存在すら知らない。けれども世界各国に散らばるレア楽器は、その存在のインパクトや独特の音色を一度知ってしまえば、なかなか面白いものなのだ。


常々綴っている事柄で恐縮だが、僕個人としては音楽の入り口は何でも良いと思っている。友人が歌うカラオケでも良し。ネットでバズった音楽でも良し。YouTubeの関連動画に出て偶然クリックしてしまったというのも全然アリだ。ならば『珍しい楽器』をまとめた今回の記事が新たな音楽の発見に繋がる可能性も、アリなのではなかろうか。


総じて今回の記事が、貴方の新たな音楽の発見に貢献できれば幸いである。それでは。

新型コロナウイルスとライブハウスについて思うこと

こんばんは、キタガワです。

 

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日々猛威を振るう、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)。日々増大する恐怖心に比例するように、報道されるニュースはいつしか国内外におけるコロナウイルスの近況報告で一色となった。


当初新型コロナウイルスは限られた国における一過性の流行であるとされ、大規模な感染拡大予防措置を講じる必要はないとされていた。しかしながら予想に反してその勢いは留まることを知らず、現在ではかつてのSARSや新型インフルエンザを超える世界的大流行となり、去る3月12日に世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が「新型コロナウイルスはパンデミックであると言える」と見解を述べたことにより、国内を覆い尽くす危機感は更に引き上げられた。そして現在においてもイタリアでは医療崩壊の危機が叫ばれ、アメリカでは50人以上が集まるイベントを今後8週間見合わせるよう勧告するなど、今や新型コロナウイルスは何よりも優先するべき国家の重大案件として取り沙汰されている。


無論、新型コロナウイルスの影響は海外諸国のみならず、ここ日本にも多大な弊害を及ぼしている。言わば密閉された培養空間と化したクルーズ船・ダイヤモンドプリンセスの集団感染を契機とし、以降新型コロナウイルス感染の報告は全国で相次ぎ、今なお際限なく増え続けている。その結果海外旅行客からのインバウンドに重きを置く各地のホテル業や飲食店は売上が減少し、接客業以外の様々な企業にも影響が及んだ。日常に生きる我々にとっても例外ではない。マスクの在庫不足や中国輸入品の入荷遅れ、果ては誤った情報によるトイレットペーパー不足といった問題も起きた。今でもコロナウイルスの影響はその大小に関わらず様々な事象に飛び火し、当たり前だった我々の生活を締め付けている。


そんな中コロナウイルスによって甚大な被害を被った存在こそが、ライブハウスである。


音楽を愛するファンたちにとって欠かせない遊び場であったライブハウスは「ライブの参加者とその接触者が次々と感染した」とする悪魔の報から一転、濃厚接触を誘発する可能性の高いクラスターの一因として、世間から後ろ指を指される存在と化した。


加えてライブ自粛の風潮に拍車をかけたのが「多数の人が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については大規模な感染リスクがある」、「今後2週間は中止、延期、または規模縮小等の対応を要請する」との2月26日に安倍晋三内閣総理大臣の口から放たれた一言である。決して強制ではない。けれども間違いなく鶴の一声の効力を宿したそれを契機として、数多くのライブイベントが軒並み中止、もしくは延期を余儀なくされた。なおこの件に関しては後に延期の継続を求める表明がなされ、今現在でもライブ自粛要請改善の見込みは立っていない。


そもそもの話として、首相が述べた一連の要請は一概に全てのライブ自粛を強制するものではなかった。首相が述べたのはあくまでも「開催の必要性を改めて検討してほしい」との所謂『要望』に過ぎず、ここまで極端な全国規模な中止・延期の措置を求めていたとは一概に言い難いものがある。


しかしながら、闇営業然り政治資金問題然り、少しでも悪評が轟いてしまえば何らかの措置を講じる必要があるのが世の常である。各地のライブハウス及びイベンターがここまで大規模なライブ中止・延期の決断を下したのも、日々報道されるライブハウスへの悪評を鑑みてのことだろうと思う。個人的には満員電車や飲食店における感染リスクもライブハウスと同等のものがあるのではと疑念も抱いてしまうのだが、とにかく……。確かにライブハウスはある種の密閉空間であることは事実であり、新型コロナウイルス専門家会議がまとめた『換気の悪い密閉空間』と『多くの人が密集する場所』、『近距離での会話や発声』との3つの条件の重なりにも該当する。総じて蔓延の可能性は完全には拭いきれないのが実状だ。


けれども声を大にして言いたいのは、このライブ自粛の試みは何も「ライブハウスがコロナウイルス蔓延の根元的な原因のひとつであると認めた形」では決してないということ。そう。これはあくまでも万にひとつでも感染の可能性があるならばと、集まる観客の健康のために、ひいては日本全体のウイルス蔓延防止のためにライブハウスが下した、言わば苦渋の決断であったのだ。


見放題他、様々なサーキットイベントの主催を務めるとある人物は自身のツイッターにて「ゼロか100で判断するなら、もちろんライブハウスは感染リスクがゼロではないです。でも、それはどこだって同じこと。だけでは済まされない今の日本の空気感。それはとてつもなく重いものでした」と悲痛な胸の内を明かした。サーキットイベント2本が中止に追い込まれ、会場費は主催負担で必然的に収入はゼロ。加えて33にも及ぶ会場がキャンセルとなった事実を語り、続けて「イベント屋は本気で死ぬよね。コロナと民意と情報に殺される」と締め括った。実際SNS上に非情な現実を白日の下に晒す人々は彼以外にも数多くいて、まるで彼らの絶望の表情が文字数制限ギリギリの呟きを通して透けて見えるようでもあり、そうした呟きを目撃するたびに胸を締め付けられる。


この数週間、具体的に何が駄目で何が良いとの明確な線引きもされないまま、時が過ぎていった。SNSには日々アーティストによる開催自粛・延期の報告が並び、それに対してファンが励ましのコメントを送る光景も何度も見てきた。中にはこんな状況だからこそと採算度外視で無観客ライブの配信や過去にリリースしたライブ映像をYouTube上にアップするなど、アーティストが一丸となって音楽を盛り上げようとする動きも見られた。


実際のところ、自身の趣味を『音楽鑑賞』とする人間であったとしても、実際にライブに足を運ぶ人というのはごく少数だ。極端な話『音楽好き』のフィルターを介さず広い規模で見れば、おそらく日常生活において音楽の比重がそこまで大きくない人間の方が圧倒的に多数派であろうと思う。


しかしながら、流行の音楽を動画サイトやストリーミングで消費する人間がいるように、ライブを心の拠り所としている人間も一定数存在する。そうした人々にとっては一向に収束の兆しが見えない現状は日常に靄がかかったように、拭い切れない違和感として残っている。たかがライブ、されどライブ。アーティストにとってもイベンターにとっても、そしてひいては音楽以外で生計を立てている我々にとっても、「ライブ自粛は当然」との同調圧力が加速する今現在の苦悩は、筆舌に尽くし難いものがある。


そして何より、来たるライブのためにリハーサルを重ねてきたアーティストやイベンターサイド、ライブハウス運営の方々の心痛は計り知れない。この問題はもはや「少し延期になっただけ」、「またすぐに元に戻るだろう」というような軽々しい問題ではない。間違いなく今のライブハウスに降り注ぐ諸問題は我々が思っている以上に深刻であり、ライブハウスの運営側はライブハウスそのものが潰れるかどうかの瀬戸際で戦っている。


単純に広く知られていないだけであって、日々赤字がかさんだり、中にはどう足掻いても返済しきれない負債を抱えるライブハウスもあるだろう。だが前述の通り、今回のライブ中止・延期の決断はそうしたライブハウスを愛するアーティストと、何より音楽を愛するファンに対して行われているということは、絶対に忘れてはならない。


そして音楽を愛する我々はこんな状況だからこそ、音楽という名の娯楽を維持するためには何が必要なのかを一考し、行動に移していかなければならない。中止となったライブのグッズを通販で買うも良し、CDやDVDを購入するも良し。SNSでアーティストの行動を拡散することも、ひとつの応援の形だ。貴方が好きなアーティストも、それを支える人たちも皆一丸となって頑張っている今だからこそ、である。音楽を愛し、また音楽に救われてきた我々ファンが音楽の火を絶やさずに守り抜いていくことこそが、未来へ繋がるのだ。


国内外で感染者は増え続けている今は確かに、解決の兆しも見えない暗中模索の状況ではある。今記事を執筆しているのは3月18日だが、おそらく国内外の情勢は刻一刻と悪化するに違いない。コロナウイルスの一刻も早い終息と共に、ライブハウスへの風評被害がこれ以上肥大化しないことを切に願う。エンタメ関連各社が発表した声明文にも記されているように、どれだけ辛い日々が続こうとも『春は必ず来る』のだ。収束に向かうのがいつになるかは不明だが、晴々しい未来を迎えるためにも我々は全力で、今やるべきことを成そうではないか。

映画『Fukushima 50』レビュー(ネタバレなし)

こんばんは、キタガワです。

 

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2011年3月11日。東日本大震災および福島第一原子力発電所事故が発生したあの忌まわしき日の爪痕は、あれから数年間もの時を経たにも関わらず今なお多くの日本国民の心をざわつかせ、薄れることはない。


死者1万5899人、行方不明者2529人という未曾有の大災害の様相を呈したあの日の出来事は決して風化させてはならない事件であり、同時に後世に語り継ぐべき悲劇であった。この記事を書いているのは3月13日だが、11日も12日も、そして今日この日においても、テレビでは当時の震災の様子と今に生きる福島の住民へのインタビューがひっきりなしに流れている状態で、当時の福島がどれほど悲惨な状況であったのかを改めて感じ入る次第だ。


何故冒頭に長々と東日本大震災の話を述べたのかと言えば、それは今回鑑賞した映画『Fukushima 50(フクシマフィフティ)』が福島第一原子力発電所をテーマとした映画であるためだ。


……『Fukushima 50』は当時の福島原発の現場で働いていた作業員にスポットを当て、どのようにして現状打破を図ったか、そしてあの場で何が起こっていたのかをつまびらかにした映画作品である。映画内では実際の津波発生時の様子や内部状況が事細かに描写され、まさに3.11の惨状を後世に残すという意味ではこれ以上ない映画であったと思う。


しかしながら僕は今作『Fukushima 50』は、あまり好意的には鑑賞できなかったというのが正直なところだ。具体的にはこれが19時、もしくは21時辺りの時間帯で放送される2時間の民放ドキュメンタリー番組であれば、僕は迷いなく100点を付けるだろう。けれども忘れてはならないのは、今作がひとつの『映画』であること。映画には起伏や重要ポイント、類い稀なるメッセージ性が必要不可欠だが、今作はそれが平均より下の水準で留まっているのだ。


まず大きなマイナス点として、全体のシナリオ進行。今作は基本的に「○○が破裂しました!」→解決→「○○の数値も低下しています!」→解決……との『ずっとヤバい状況』が連鎖的に発生する。例えば物語自体に何らかの起伏があれば許容できる部分ではあるが、今作は主人公らが陥っている状況が「絶体絶命の封鎖空間」であるため登場人物全員が常に気を張っている。そのためいささか冗長な感も否めなかった。


そして大きなひとつが気になると細かいことも気になってしまうもので、強引すぎる政府の言動(当時の総理大臣・菅直人とは似ても似つかない態度の悪さがある)や各種問題提起の薄さ、更には登場人物が多過ぎて一部空気化してしまっているなど、2時間構成の映画としてはお粗末な部分も散見された。


もちろん一概に「この映画は駄作だ」と激を飛ばすわけではない。原発現場で尽力する作業員の熱意も感じられたし、CGは作り込まれていたし、後半では心をグッと掴まれる部分もあった。けれども前述の通りひとつの『映画』として観る分には首を傾げてしまう箇所も多く、総じて「ちょっと微妙かなあ」との結論に至った次第である。


これも前述の通りだが、この映画は言わばドキュメンタリードラマなのだ。極端な話をしてしまえば、今作の端々にテロップとワイプで抜かれる芸能人、そして「この後、驚くべき展開が彼らを待ち受けていた……」とのナレーションとCMを挟むだけで、『Fukushima 50』は完全なるドキュメンタリー番組になる。ここで僕が声を大にして言いたいのは「じゃあそれって映画なの?」ということ。だからこそひとつの『映画』として評価した時、残念ながら低評価を下さざるを得ないのだ。


余談だが、今作は公開に至った直後辺りから、SNS上や新聞各紙で多くの批判が巻き起こっている。映画レビューサイトは賛否両論の嵐となり、中には「現政権への批判だ」といった意見や「福島県民の傷を抉っている」、「原発がまだ廃止に至っていないのに何故公開したのか」と被害者側に立って異を唱える者すらいた。


そうした風潮を踏まえて僕が思ったことは、「やはり実際に映画を観ないと何も分からない」ということ。事実僕は今作を観て「福島馬鹿にしてるのか」とは全く考えもしなかったし、政府批判と揶揄される箇所についても確固たる意図の元で作られていることは間違いなかった。どうか当記事を読んでくださる皆々様には、SNS上の評価だけを観て「微妙だ」とは思わないでほしいと強く願う。


僕はこの映画……微妙だったけれども……。


ストーリー★★★☆☆
コメディー★☆☆☆☆
配役★★☆☆☆
感動★★★☆☆
エンターテインメント★★☆☆☆

総合評価★★☆☆☆

 


映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)予告編

全ての社会的弱者に送る、amazarashiの代表的名曲+歌詞10選

こんばんは、キタガワです。

 

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日常で巻き起こる悲喜こもごもを歌うロックバンド・amazarashi。今でこそ日増しに知名度を広げている彼らだが、今の地位を確立したひとつの要因に挙げられるのは、フロントマンである秋田ひろむ(Vo・G)による等身大の描写で綴られる、多大なる求心性を宿した歌詞であろう。


3月11日に渾身の一手たるフルアルバム『ボイコット』をリリースし、関心の目が注がれるに相応しいこのタイミングだからこそ。今回はamazarashiの楽曲及び特筆すべき歌詞を10個抜き出し、彼らの楽曲群が何故聴く者の心を掴んで離さないのか、その真髄に迫っていきたい。


amazarashiにおける心に染み入る印象的な楽曲と歌詞は、聴く人の現在の境遇や立場によって千差万別である。そのため以下に挙げる10曲はあくまでひとつの足掛かりとして捉えていただき、現状発表されている音源の隅々まで目を向けてほしいと切に願う。総じて今記事が未聴の人間にとってはamazarashiのいう名の新天地へ足を踏み入れる起爆剤として、そしてかねてよりのファンにとっては、より一層彼らに傾倒するに至る契機となれば幸いである。

 

 

 ①つじつま合わせに生まれた僕等

《善意で殺される人 悪意で飯にありつける人/傍観して救われた命 つじつま合わせに生まれた僕等》

 


amazarashi 誦読『つじつま合わせに生まれた僕等 (2017)』 Music Video

 

結成初期から歌われ続けるamazarashiを代表する名刺代わりの1曲とも言える“つじつま合わせに生まれた僕等”は、世界の成り立ちから他者の生死といった本来思いを巡らすこと自体ナンセンスな存在意義について一考する、極めて哲学的な楽曲だ。


ごく狭い視野で日々を生きている我々だが、ふと世界に目を向けると何処かの国では人が土に還り、動物が死に、絶望の底で涙を流す人もいる。……そうした諸行無常の事柄から至る結論こそが「つまるところ世界は個々の集合体でしかない」という真理と「この世に生を受けた理由は世界の均衡を保つための辻褄合わせに過ぎないのではないか」との不明瞭な解なのだ。


しかしながら、そうした繰り返しの果てに誕生したのが今我々が生きる世界であることは紛れもない事実。総じて生と死を対比させる“つじつま合わせに生まれた僕等”は、絶望の淵においても死の選択肢だけは絶対に回避せんともがく心情が如実に表れる、生をより身近に呼び起こす哀歌と言えよう。

 

②奇跡

《つまずいたのが 奇跡だったら このもやもやも 奇跡 奇跡/立ち向かうのも 引き返すのも 僕らの答え 奇跡 奇跡》

 

前述の“つじつま合わせに生まれた僕等”が存在意義を主軸にしているとするならば、“奇跡”は全ての事象自体が天文学的確率であるとの思いを巡らせる、人生の根幹部分を歌う楽曲である。


何度も繰り返される《奇跡》のフレーズは一見幸福なイメージを暗喩する《奇跡》のようでいて、楽曲全体に目を向けると本来のそれとは大幅に異なることが分かる。そう。この楽曲で歌われる《奇跡》とはつまり、理想と現実のギャップにうちひしがれる中での精一杯の詭弁なのだ。上手くいかない現実も挫折も、それら全ての事柄を奇跡であると言いくるめることで心の安定を保つ、上手く生きられない人間ゆえの不安定さが見て取れる。


けれども《つまずいたのが 奇跡だったら このもやもやも 奇跡 奇跡》とする思考変換は一種の現実逃避に他ならず、一切の根本的解決には至っていないのも事実。絶望の淵で彷徨う人間が共通して最も欲しているのは問題解決の手段ではなく、少しでもざわついた心を落ち着かせるための『何か』である。だからこそ“奇跡”は狭い視野で絶望に落ち行く人間の考えを緩めるひとつの契機となり、暗黒の日常に少しの光をもたらす。たとえそれが、一時の慰めに過ぎないとしても。

 

③ジュブナイル

《「人間嫌い」っていうより 「人間嫌われ」なのかもね/侮辱されて唇噛んで いつか見てろって涙ぐんで/消えてしまいたいのだ 消えてしまいたいのだ》

 


amazarashi 『ジュブナイル』

 

他者から蔑まれる現状を自分自身の性格的な問題以上に『人間的欠陥』であると置き換えることで、より一層自己否定を強め、憂鬱を増幅させてしまう負のサイクル。そうした堂々巡りの自問自答は精神を殺す何よりの凶器であるということは、おそらく誰もが理解しているにも関わらず、頻りに思い悩んでしまう。その最大の理由はやはり、トラウマティックな事柄と増大する憂鬱に起因する自己否定の存在が大きいのではなかろうか。


突如出現したモンスターから逃げ惑う上記のMVに描かれているように、正体不明の憂鬱というのは突発的に起こるものだ。中でも最も極端な悪手として描かれる逃げ場を失った少女が屋上から身を投げる一部始終に顕著だが、たとえそれが他者からすれば一笑に付される事柄であったとしても、当人にとっては何よりも強大な『今消えたい理由』になり得るのだ。


そうした無形の絶望を、最終的に《物語は始まったばかりだ》との希望的観測で締め括る“ジュブナイル”は「結局のところ生きるしかないのだ」と分かりきった結論を改めて突き付け、絶望と直接的に向き合わせる力強さを秘めている。

 

④スターライト

《夜の向こうで何かが待ってて それを照らして スターライト/情熱 希望なんでもいいけど 僕らはここに居ちゃ駄目だ》

 


amazarashi 『スターライト』

 

アマチュア時代から形を変えながら歌われ続けてきた、言わばamazarashiにおける重要曲のひとつでもある“スターライト”は、宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』に見立て、果てなき旅路を歌うミドルチューン。けれどもその物語上の観測者として描かれるのは、原作の主人公・ジョバンニでも友人・カムパネルラでもなく、他でもない自分自身だ。


“スターライト”は当時一種の引きこもり状態であった秋田が、自身を鼓舞するために作り上げた楽曲である。現状維持に甘んじることで訪れるであろうバッドエンドを《僕らはここに居ちゃ駄目だ》と思考変換し、現状を好転させる何かしらの事柄を模索する……。楽曲内で示されている光は徹頭徹尾どこか朧気で確実性がない。しかしながら光を渇望する思いに関しては力強く明白で、何としてでも絶望から這い上がろうとするバイタリティーに満ち溢れている。


ことライブでは決まって終盤に位置し、クライマックスに向けての重要な役割を担う“スターライト”。永遠にも思える長い夜であっても、いずれは明ける。暗黒の夜を抜けたamazarashiの旅路が今絶望する人間の希望の光となっている現状は、おそらく偶然ではないのだろう。

 

⑤名前

《どんな風に呼ばれようと 好きにやるべきだと思うよ/君を語る名前が何であろうと 君の行動一つ程には雄弁じゃない》

 


amazarashi 『名前』Short Version.

 

絶大な説得力を伴って進行する“名前”は、タイアップへの起用やライブ動員数が増加傾向にあった当時のamazarashiにおける言わば転換期に発表された。今回取り上げる楽曲群の中では唯一のカップリング(B面)曲ではあるものの、後に個別MVも制作されたほど根強い人気を誇る楽曲でもある。


人間は学校や会社といった組織に必ず属していながらも、他者を「○○っぽい」、「○○だから」との勝手な理由と解釈で外見的、もしくは性格的特徴を指して定着化させてしまうことがある。


問題なのは、通例化した“名前”が例え本人の意に沿わないものであったとしても、人物を端的に表す固有名詞として拡散されてしまう点だ。楽曲内では嘘つきや社会性不安障害、フリーター、自殺志願者、無神経、高卒といった世間一般的なイメージに照らせばおよそ避けられないネガティブな『名前』の数々が、現れては消えていく。そんな悪口めいた“名前”を指し《君を語る名前が何であろうと 君の行動一つ程には雄弁じゃない》と結論付けるこの楽曲は、有毒かつ不本意な言葉で心を蝕まれる弱者の心を溶かし温める、慈悲深い楽曲と言えよう。

 

⑥エンディングテーマ

《あなたの胸に焼き付いて 消えないような/気の利いた言葉を 言いたいんだけど/そんなこと考えてたら もう時間か/最後はやっぱり 「ありがとう」かな》

 


amazarashi 『エンディングテーマ』Real Time Face Mapping Music Video

 

生きとし生きるものに平等に訪れる終着点でありながら、おそらくは誰もが考えない……いや、考えたくもない事柄のひとつ。それこそが『死』である。そんな頭の埒外にある未来をストレートに描き、聴き手に喚起させる楽曲が“エンディングテーマ”だ。


天寿を全うする今そのとき、数え切れない苦楽が最終的に《ありがとう》の一言に集約される一部始終は、死に目を目撃した第三者から見れば「理想の大往生だった」と評されて然るべきだろう。しかしながら最期の言葉として落とされた《ありがとう》には数え切れないほどの苦楽が秘められているのも事実で、この楽曲を聴いている我々は今まさに《ありがとう》に至るまでの過程を歩む存在であるとも称することが出来る。


人生100年時代が叫ばれる現在において、酸いも甘いも入り乱れた生活を送っている我々もいつか辛い生活の果てに、人生を全肯定して《ありがとう》と思える時が来るのだろうか。その答えを知るためには、絶対に今は生きなければならないというのは素晴らしくもあり、また残酷にも思える。総じて“エンディングテーマ”は過酷な現実に疲弊した末、今まさに死の選択肢が眼前に迫るどん底の人間であればあるほど、涙腺を刺激するはずだ。順風満帆に過ごす人間の理屈では決して測れない何かが、この楽曲には秘められている。

 

⑦僕が死のうと思ったのは

《僕が死のうと思ったのは 心が空っぽになったから/満たされないと泣いているのは きっと満たされたいと願うから》

 


Ω Amazarashi - The Reason why i thought i'd die 僕が死のうと思ったのは Ω

 

日常生活における様々な事柄が遅効性の毒の如く心を侵食し、逃避の最も極端な最善手として心中に浮かぶ『死』の選択肢。


自死の選択は言わば、自分自身による自分自身に対しての殺人行為である。では何故そうした考え得る限りの極端な妄想を抱いてしまうのかと問われれば、そこには他者からすれば到底理解の及ばない、支離滅裂な思考が人それぞれに存在するはずだ。ひとつだけ確かなことがあるとするならば、「今が辛い」ということと、「きっとこの先も輝かしい未来は訪れないだろう」というどこまでも穿った未来予想図だ。つまるところ死による救済こそが現実を消失させる唯一の手段であり、自分にしか理解できない、……いや、自分でも理解できない名状し難い無形の絶望が、際限なく心を覆い尽くしている。


……“僕が死のうと思ったのは”と心的弱者が希死念虜を抱く理由については上記の通り抽象的で、明確な解は存在しないことが多い。けれどもサビ部分で歌われる《満たされないと泣いているのは きっと満たされたいと願うから》との真理は、必ずや日常的に希死念慮を抱く人間にしか理解しえない、何にも勝る雄弁さを伴って等しく胸を打つ。

 

⑧たられば

《もしも僕が生まれ変われるなら もう一度だけ僕をやってみる/失敗も後悔もしないように でもそれは果たして僕なんだろうか》

 


amazarashi 『たられば』Music Video

 

「もしも○○だったら」とは誰もが空想するifの世界線であると同時に、絶対的に実現不可能な理想である。しかしながら全てが上手くいく世界線へと歩みを進めることは当然の如く不可能で、結局のところは様々な事柄に折り合いを付けて生きていくしか道はない。


《もしも僕が○○だったら》の始まりから《困ってる人は全員助ける》や《喜怒哀楽の怒と哀を無くす》といった正義的な空想の果てに、最後のたらればとして歌われる《もしも僕が生まれ変われるなら もう一度だけ僕をやってみる/失敗も後悔もしないように でもそれは果たして僕なんだろうか》との真理へ着地する一幕は、思わず膝を叩く説得力に満ち満ちている。


書き換えたい過去も消し去りたい思い出も。そうした絶対に巻き戻すことが出来ないたらればを間接的に示すことで、最終的には残酷な現実を直視させる“たられば”。優しくも自傷的なその一連の説得は人生における根源的な響きでもって、緩やかに鼓膜を刺激する。

 

⑨月曜日

《普通にも当たり前にもなれなかった僕らは/せめて特別な人間になりたかった/特別な人間にもなれなかった僕らは せめて認め合う人間が必要だった》

 


amazarashi『月曜日』“Monday” Music Video|マンガ「月曜日の友達」主題歌

 

“月曜日”は漫画『月曜日の友達』にインスパイアされ制作に着手した楽曲であり、漫画のタイトル通り、とりわけ学校生活における友人との関係性に焦点を当てた作りとなっている。


形の合わないピース同士が決して嵌まらないように、自分を出した結果『普通』の枠から外れ孤立の末路を辿った人間に残された道は3つしか存在しない。本心を偽ってグループに属するか、スタンドアローンの一匹狼として後ろ指を指されながら過ごすか。もしくは、同種の人間と出会うかだ。


「みんなちがってみんないい」とは金子みすゞが遺した有名な詩の一節であるが、実際問題、人それぞれの多様性を認めることが出来るのは学校生活のずっと後のことで、凝り固まった視点での表面上の言動や容姿でひとりの人間の価値を決め、それがさも当然の如く蔑ろにする。それは悲観的な境遇に置かれている当事者についても同様で、行く行くは笑い話になる事象であっても、過去の笑い話として昇華出来るのは遥か先のこと。それがどれほど陳腐な事柄であっても、当時は何よりも強固な自己否定の要因になり得るのだ。


性格や境遇こそ違えど、辛い現実を緩和する貴重な友人関係として垂直に立つ「僕」と「君」の関係性。学校生活は元より、大切な人物の存在を心中に呼び起こす“月曜日”は、普通にも当たり前にもなれなかったあぶれ者たちの肩を優しく叩く、ニューアルバム『ボイコット』の中でも屈指の親和性を誇る暖かな応援歌だ。

 

⑩独白

《言葉は積み重なる 人間を形作る 私が私自身を説き伏せてきたように/一行では無理でも十万行ならどうか/一日では無理でも十年を経たならどうか》

 

ディストーションギターを経ての開幕から終始ポエトリーリーディングで進行する“独白”は、日本武道館公演で最終曲のテーマソングとなった象徴的事実のみならず、昨今のライブにおいてもクライマックスに至る道程を示す重要なアンセムとして位置する楽曲だ。


公開時点では検閲対象となり、ノイズにまみれその一切が不明瞭だった“独白”。日本武道館ラストで披露された際、歌詞が一部欠損状態で歌われていたことも記憶に新しいが、ニューアルバム『ボイコット』収録の“独白”では遂にその全貌が明らかとなっている。前半部では主人公・実多の人生回顧を主としているが、後半部では一転、言葉の何たるかを徹底してアナライズすることにより、現代社会に生きる我々の実生活やSNS上で見受けられる、言葉狩りにも似たアンチテーゼの風潮に切り込んでいる。


日本には『三つ子の魂百まで』という諺があるが、幼い頃に経験した趣味嗜好は、大人になっても良い意味でも悪い意味でも尾を引く。“独白”でも繰り返し歌われるように、人格形成に多大な影響を与えたその最たるものこそは見聞きした『言葉』の数々であり、それは精神をも無意識的に侵食し、本人の意思に関わらず行く行くは気付けばかつて浴びせられた言葉に相応しい人間として形成してしまう。


クライマックスに転じる《一行では無理でも十万行ならどうか/一日では無理でも十年を経たならどうか》との一文は、長い下積み生活の果てに日本武道館公演成功というひとつの大団円を迎えた秋田を指しているのはもちろんのこと、言葉によって形作られた我々が、また更なる言葉によって如何様にも変わることが出来るという希望の意味合いも含まれている気がしてならない。『言葉』に生涯を蝕まれながら生涯を終えるか、はたまた『言葉』を乗り越えて克服し前へ進むか。それを決定付けるのは他でもない、自分次第なのだ。

3月某日

大いなる挫折を経験した2月末の一件から、早いもので10日が経過した。あれから友人らに自傷的に事の顛末を吹聴して回りつつ「2~3日休めば元の自分に戻るだろう」と高を括っていた僕だったが、傷は遥かに奥まで達していたらしく、増大する憂鬱は一切改善の余地が見られなかった。それどころか自暴自棄な生活は日増しに加減を誤り続け、ようやっと周囲に目を向ける事が叶った頃には時既に遅し。多大な時間を虚無的に過ごした事実だけが横たわっていた。

何故10日も自堕落な生活を、と問われれば理由はひとつ。僕はおそらく賭けていたのだ。独善的なひとつの行動によりポシャってしまったこの仕事に。

先月には馬車馬の如く働いていたアルバイトも、引っ越しシーズンの繁忙を見越して短期バイトを大勢雇用したことに伴った弊害で、僕のシフトは空白が目立つようになった。更には「忙しくなるだろう」と見越して事前に申請した休日の存在も相まって、僕にとって『勝負の10日間』となる筈だったこの10日間は『ただの休日』と化した。

誰にも読まれない6000字の原稿と真っ白な休日を妙に俯瞰した目で眺めながら、僕は次第に病んでいった。そして死んだ魚の目の矛先はいつしかアルコールへと向き、気付けば前にも増して酒浸りの日々を送るようになった。すっかり全てを失った気になっていた僕は、最終的には午前6時に就寝し、午後3時に目覚めるという狂った生活ペースに落ち着いた。数日に1回入る夕方からのアルバイトではアルコールが抜けきっていないことも多く、お客様や上司から苦言を呈されることもあったが、もはやそうした事すらどうでも良いと思ってしまう自分がいた。

家に帰ると、今まで執筆活動にかまけて数ヶ月手を付けていなかったゲームやアニメに没頭した。ゲームは『龍が如く7』。アニメは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』と『女子高生の無駄づかい』……。泥酔状態でもなるたけ楽しめる手段を模索した結果だった。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という諺があるように、この挫折も年月が経てば笑い話に昇華出来るであろうとの思いは抱いてはいる。何故ならいじめや社会性不安、日々襲い来る希死念虜を越えた果てに今の自分が存在しているという純然たる事実があるためだ。しかしながら同じようにその当時は堂々巡りで感覚が崩壊していたこともまた事実であり、時には曲解し、時には幾度も考えを巡らせながら、無形の絶望と戦ってきた。……おそらくそうした死線を潜り抜けてきた人々が最終的に『大人』と呼ばれる立場の人間なのだろうし、総じてこの境遇も「通るべくして通る道なのだ」との真理たる回答パネルは、頭の片隅では常に掲げられている。

あれから10日が経った今、僕は久方ぶりに文章を書き、音楽を聴くことを再開した。いくら悩めども、最後に行き着く場所はここなのだと否が応にも痛感する次第である。

……ストロングゼロですっかり麻痺した頭で、『龍が如く7』をプレイする。「人生にゲームオーバーなんてねえんだよ!」と意気込んでバトルに挑んだ主人公が、ボスの秘奥義であっさり死んだ。やはり現実は厳しそうだ。