キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

下を向いて歩こう

ここ数ヶ月で、いろいろな本を読むようになった。思えば小説とは昔から付かず離れず……。最近では『付かず離れ離れ離れず』レベルで足が遠のいてしまっていたのだが、ようやくである。もっとも、飲酒量が深刻化し「本を集中して読めば酒量が減るんじゃないか?」と考えたというきっかけさえ無ければ、更に良かったのかもしれないが。

読書をしていると、物語以外のことは思考から消えていく。普段僕はゲームをするのだけど、別の世界に自分が侵入し、登場人物を俯瞰で操作している感覚にも陥るので、小説は言わば別ジャンルのゲーム。文明の利器と切り離した時間も含め、とにかく快適だ。にも関わらず、どつやら年月を経て小説から遠ざかった人は少なくないようである。同じ職場の同僚に話を聞いてみたところ、「昔は読んでたけど今は全く読んでないよ」と答える人は一定数いて、その境界線はほとんどが『就職』だった。要は時間がなくなったから読書する暇がない、と。

ただ「昔は本を読んでた」という記憶が浮かぶだけでも、読書の意味はあると思う。西村京太郎の本を読んでいた人が、時刻表に詳しくなる。ハリー・ポッターを読んで夢の世界を考える……。「あの時この本を読んでたから変われた」ような経験を、誰もが無意識的にしているのだから。これは勉強でもスポーツ、その他のあらゆることにも当てはまる。過去の経験だったとしても、絶対に今を生きる糧になるのだ。

思えば自分は、昔から本を読む子供だった。授業中に教師からの視線を教科書でガードし、昼休みも図書館……という日々は本の虫にも見えるが、実際自分にとっての読書は、現実逃避の手段でもあった。イジメはもちろん、外見的にも奇異の目を向けられることの多かった当時だからこそ、目の前の紙媒体に没入したのだ。

中でも好んで読んでいたのは、ネガティブな本。具体的にはクローズド・サークルやミステリー、ホラーなどいわゆる『人が死ぬ物語』が基準であり、対照的に笑顔あふれる恋愛や冒険ものには、全く心が動かなかった。それこそ蔑みを受けた時、何度も「こいつらを××したらどうなるんだろう」と思ったものだが、そんな怒りも本を読むことによって和らげていたような気もする。

しかし大好きだった本との距離は、県外への大学進学と共に遠くなるばかりだった。その理由は純粋に、体調が良くなって積極的に人と関わるようになったから。『人が嫌いだから本に逃げるぞ』というのがこれまでの流れだったとすれば、根本の『人嫌い』が緩和されれば『本に逃げる』の行為が消えていくのは必然だった。実際ほとんど本を読まず、更には文章すらほぼ書かないそれは大学卒業まで続くこととなり、地元へ帰って、新たな生活をスタートさせた。

当時こそ「がんばるぞ!」の思いが先行していたものの、帰郷後の僕はまるで大学以前に戻ったように、精神的に荒れた。同じく悩める原因は人間関係だったが、イジメだ暴力だと直接的にやられていた学生時代とは違い、大人になってからの人との関わりは陰湿の極みで、また違ったストレスがあった。イジメにしても、大人は基本的に証拠を残さない。自分の知らない場所で噂され、気付けば喉を絞め上げられるそれは、まるで「お前が人と関わってこなかったからダメなんだよ」と言わんばかりの勢いで、強く心を蝕むものとなった。その頃から僕はまた本を読み始めるようになり、また辞めて、また始めてを繰り返して数年……。そして仕事でのストレスが重なった今、またグロい本をいろいろと読み始めた次第である。

物事を始めるのも辞めるのも、枝分かれする選択のひとつ。『塵も積もれば山となる』『継続は力なり』『明日やろうは馬鹿野郎』『ローマは一日にして成らず』などなど、世の中には様々な継続の言葉が溢れているけれど、何かを一旦辞めることで見えてくる、人それぞれの生き方も肯定すべきではないか。

変わり映えのない、仕事仕事の生活。いつかその先に素晴らしい何かが待っていると信じて、僕は今日も本を読んだり、読まなかったりしている。……前向きな人からすれば「こんな後ろ向きな考えは自己弁護かなあ」とも思ったりするが、それはそれとして。元来ネガティブな人間のアイデンティティと捉えれば、挫折すらも活きてくるものだ。

amazarashi 『下を向いて歩こう』Music Video - YouTube