キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

埃被った最後のボタン

死ぬことばかりを考えている。毎日、毎時間、酷い時には数分に一回。仕事をすればコミュ力のある同僚と幸せに笑う家族。家に帰ればハッピーなバラエティ。現実逃避の先として行き着くYouTubeや漫画を見ていても、決まって襲い来る。そしてそうした生き地獄にも等しい風景を目にするたびに、僕は改めて思うのだ。今すぐに死にたいと。


僕が強い希死念慮を感じるようになったのは、もう十何年も前のことである。小学校入学から高校卒業に至るまでの僕は今以上に持病の皮膚炎が酷く、体中が血塗れ、かつ真っ赤な顔で校内をうろつくことからとても居心地が悪かった。まさしくそうした肉体的に痛みを感じる人間にとっては改めて学校という場は生き地獄そのものであり、体育の授業で強制的に半袖を着させられることや、周囲に合わせて暖房を調整したりといった当然の行動でどんどん追い詰められていき、肉が張り付いて一切表情が作れなくなった顔で早退を告げることも少なくなかった。


同時期に苦しめられたのが、皮膚炎のストレスに伴って併発した精神疾患。先述のあれこれで痛みに耐性が出来ていたためあらゆる自傷をしたが、全てが顔面や指先、頭髪など視覚的に人の目に入る場所で発生した関係上、それらを指摘されることを恐れるあまり日増しに人との関わりを持たなくなった。そして何より絶望したのは、一貫して無関係を装うように振る舞いながら、更には僕を嘲笑の的にしようと組織的に画策するクラスメートの姿勢にあった。当時は明らかに異様な風貌だったので、近寄り難い存在として見なされるのはまだ分かる。ただそんな弱者の一挙手一投足を陰口として吹聴したり、偶然Aさんに話したプライベートな内容が翌日にはクラス中に広まっていたり、吃音症状を物真似として披露する者がいたりと、いつしか僕にとって人間関係は極めて難しく、また意図的に避けるものになってしまった。


その頃の僕が何をしていたのかと言えば、ハガキ職人としての活動をしたり人が死ぬ類の小説を貪り読んだりしながら、クラスメートたちの不幸を毎日願っていた。結果妬ましくも自意識過剰なそうした日々が希死念慮の増幅に繋がったのは言うまでもなく、総じて身体的にも精神的にも酷くやられたのが小学校〜高校までの義務教育期間だったのだと、今更ながらに回顧することがあったりもする。よくイジメられた人間に「イジメられる側にも責任がある」、学生時代が鬱屈していた人間に対して「改善出来なかった自分が悪い」とする声があるが、それは絶対的にNOである。何故ならば当時の自分が何を試みたとて、状況が好転する可能性など皆無だったのだから。


あれから数年間、僕は未だに鬱屈したかの義務教育時代のトラウマを引き摺って歩いている。確かに歳相応の出来事は経験してはきたけれど、人への恐怖心と精神疾患だけはそっくりそのまま持ち越して、歳だけを重ねてきた。しかしながらこの年齢にもなるとこれらのステータスは圧倒的なマイナスにしか働かず、あの頃陰口を叩いていたような人々は逆に結婚し、貯金をし、挙げ句の果てには「○○さんって人と関わらないよね」などとかつてと同じ陰口を言っている。かくして希死念慮を増幅させる要因がすっかりかつての時より増えてしまった僕は、今まで以上の死にたい願望を抱えながら生き長らえてしまっている。


……僕は結局、どうすれば良かったのだろう。また、今後どうすれば人並みの生活を送れるのだろう。答えは変わらず今日も闇の中だが、きっと悩みながら明日も明後日も生きていく。眼前にあるボタンが埃を被るまで、何とか耐え忍んでいかなければ。

 

THURSDAY'S YOUTH / 独り言 (official music video) - YouTube