キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

コロナ渦におけるリアルを逆説的に説く、RADWIMPSの新曲“夏のせい”を聴いた

こんばんは、キタガワです。

 

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小池百合子東京都知事が公の場で「今年の夏は特別な夏です」と語ってから、早いもので1ヶ月もの月日が過ぎ去ろうとしている。その言葉を体現するかの如く、結果として今年の夏は夏祭りもイベントもフェスも軒並み中止となり、体感温度的には今までと然程変わらないようでいて、その実明らかな何かが消失した寂しき季節となった。今日も灼熱の太陽の下、昨年と比べて明らかに色素が薄い腕を見ながら僕らは一考する。「今年は夏らしいこと全然してないな」と。


そんな折の夏真っ盛りの某日、RADWIMPSが新曲“夏のせい”を配信リリースした。事前告知もほぼないサプライズ的発表であり、必然“夏のせい”はその楽曲が一切公開されていないにも関わらず、世間の注目を一身に浴びるに至った。配信ジャケットにはすっかり水が抜かれた学校のプール内で、晴天に照らされる中学習机に腰を降ろす4人の男衆が描かれており、どこか夏の情景を思わせる代物。けれども“夏のせい”との責任を押し付けるような独特なタイトルからも、必ずしもポジティブな内容の楽曲ではないということだけは、誰しもの脳裏に浮かんでいたはずだ。

 


夏のせい RADWIMPS MV


《夏のせいにして 僕らどこへ行こう/恋のせいにして どこまででも行こう》

《胸踊るものだけが 呼吸するこの季節に/取り残されて 置いていかれてみようよ》


“夏のせい”は夏ならではの情景と合わせて『僕』と『君』との青春が描かれる、夏の情景を思わせる穏やかなバラード曲。思えばRADWIMPSはこの未曾有のコロナ禍においても、多種多様な楽曲を大々的に発表してきた。鬱屈した状況下でも前向きに生きようともがく“猫じゃらし”、コロナウイルスが収束した未来において自身の行動を模索する“新世界”、コロナ禍(コロナカ)における現実と、未来に光あれと希望を希求する“ココロノナカ”……。彼らがこの数ヶ月の自粛期間で生み出した楽曲には、総じてストレートな絶望的な思いと希望が混在するメッセージソングが必然、多くなっていた印象すら受ける。


そうしたここ数ヶ月の彼らの動向を踏まえて、今作“夏のせい”を見ていこう。昨今の音楽番組等々で大きく拡散された“ココロノナカ”や“新世界”に顕著だが、今年に入ってからのRADWIMPSはコロナウイルスの影響もあってか、ある種ストレートに『今』と『未来』に焦点を当てる楽曲が多かった。対して“夏のせい”はというと、楽曲を聴いて直接的にコロナウイルスを想起させる描写は極めて少ない。それどころかネガティブな描写さえほとんどなく、楽曲全体を覆い尽くしているのは酷く抽象的な『夏っぽさ』のみで、更には《胸踊るものだけが 呼吸するこの季節に/取り残されて 置いていかれてみようよ》との上記の一節のように、ある種このコロナ禍の現状をすっかり受け入れているような場面も見られ、ともすれば夏らしい爽やかな楽曲とも、叙情的魅力を携えたRADWIMPSらしい楽曲とも捉えることが出来る代物である。


けれどもこの楽曲は様々なメディアで野田洋次郎(Vo.G.Piano)自身が幾度も述べている通り、コロナ禍なくしては生まれなかった楽曲には違いない。かつてリリースした夏を題材にした楽曲で例えるとするならば、甘酸っぱい青春を経て9月に至る“セプテンバーさん”的でも、英詞が炸裂するアッパーな“イーディーピー ~飛んで火に入る夏の君~”的でもない。夏に全責任を押し付けて安寧を錯覚する“夏のせい”はコロナ禍におけるリアルを逆説的に説く、言うなれば夏の情景で徹底的にカモフラージュされたドキュメンタリーなのだ。


バンドのフロントマンであり、全楽曲の作詞作曲を務める野田はこのコロナ禍において、多くの苦い思いと共に生きてきた人間だ。ライブツアー延期の報に落胆し、政治に怒り。関係者各位の悲痛な声に耳を傾けては、思考を巡らせた。そしてそれら以上に、RADWIMPSの野田洋次郎として自分はこのコロナ禍で何が出来るのかを模索し、耐えず制作活動に生活の軸を置いてきた。その末に辿り着いたひとつの答えこそが、此度急ピッチでリリースされた“夏のせい”である。表面的には『僕』と『君』とのスタンダードな夏を想起させる。だが歌詞を深掘りすれば明らかなコロナ禍のリアルが顔を出すそれは、夏やコロナを主題に据えた楽曲ならいざ知らず、ここまでのフラットな形で描くというのは、やはり此度のリリースは無意識的にではあるにしろ、RADWIMPSが世間から与えられた役割なのではとも思ってしまう。


繰り返すが、2020年はただただ熱いだけの夏に終始した印象が非常に強い。前々から企画していた行事やイベント事はすっかり霧散。のみならず、休日にストレス発散として行っていた様々な行動にも制限がかかり、テレビを点ければコロナ関連のニュースに追われた。それ以外にもマスク着用の半強制化や外出自粛で人間関係の希薄さにも拍車がかかったことも追い打ちとなり、本当にコロナが猛威を振るい始めた2月から現在にかけての半年間は、おそらく大半の人間が苦しい日々を過ごしていたことと推察する。


これらのネガティブな事象全てを『夏のせい』と見なして一息つくことは、結局は現実逃避に過ぎない。しかしながらそう考えることで少しばかりは心が軽くなるというのも、確かな事実として垂直に立っているはずだ。そしてこの日々の鬱屈した生活を“夏のせい”とするなら、秋になれば。冬になれば。来年になれば……。そのときにはまた新しい景色が広がっているのではなかろうかと、希望的な思いにも繋がる。後日アップされたRADWIMPSのスタッフブログでは、前述の“夏のせい”のアートワークに関して「現実のような非現実のような」との言葉が繰り返し出されていたことや、元々“夏のせい”の制作は昨年の夏に着手されていたことも鑑みるに、RADWIMPS側が今回のリリースのタイミングはズバリ、コロナウイルスに翻弄されるこの時期であると判断したということだろう。そしてその判断は“夏のせい”が音楽番組『FNS歌謡祭』で初披露され反響を呼んだことや、多くの人々に楽曲が再生されている現状を鑑みても、おおよそ間違っていなかった。


そしてこの発表から数十日後の9月2日には、“夏のせい”を含む計6曲を収録した『夏のせい ep』をリリースしたRADWIMPS。世界の行方が今後どうなるかは、未だ分からない。今年中にコロナが収束するのか、はたまた来年もこの恐怖と共に日常を過ごすのか……。それすらも不明瞭だ。だがこの暑いうちは少なくとも、全てを夏のせいにして、乗り切っていこうではないか。炎天下の中イヤホンから流れる“夏のせい”は、いつでもそう僕らに訴えかけている。