キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

映画『友罪』の感想を語る(ネタバレなし)

こんばんは。キタガワです。


そもそも、殺人の定義って何だよ、っちゅー話である。


「ナイフで刺すとか、車で轢いたとか。人を殺したら殺人でしょ?」という、いわば模範的な回答を言いたいのではない。もっと多面的な視点での話をしているのだ。


例えば自殺。他者ではないにしろ、ひとつの命を無きものとしたという意味では、これも殺人だろう。


例えば妊娠中絶。避妊具を使わず未成年で性行為をしたり、「安全日だから」と安易に精を受け入れてしまったり。本意ではないにしろ、金銭的な面などから妊娠を中絶する人もいる。これは殺人だろうか。


例えば。友人に「お前なんか死んじまえ」と冗談で言った結果、本当に命を絶ってしまったら。これは殺人?


あのとき会社を休ませていれば。話を聞いてあげてれば。いっそ僕と出会わなければ……。それらのたらればは、本来の殺人とは形が違えど、当人にとっては立派な『殺人』であり、一生消えることのない傷として、心に深く刻まれる。


では、もう少し深く切り込んでいこう。


ズバリ、『殺人を犯した人は幸せになる権利があるのか?』という点について。


答えは『Yes』である。


人間誰しも幸せになる権利があるし、それは罪を犯した者も同様だ。結婚したり、子どもを授かったり。金を貯めたり、うまい飯を食ったり。一時のあやまちで、たった一度の行為で『一生不幸であれ』というのは、あまりにも酷ではないだろうか。


しかし、被害者遺族としては不本意であるのは間違いない。死刑を望む者、終身刑を望む者。加害者が人間らしい暮らしをすればするほど、苛立ちは増して鬱々とした気持ちになるのだ。


もちろん、上記のような話にははっきりとした答えは存在しない。哲学じみた話だし、考えれば考えるほど泥沼に嵌まる。考えるだけ無駄というものだ。

 

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……前置きが長くなってしまったが、現在公開中の映画『友罪』は、そんな答えのない哲学について、真正面からぶつかった作品である。


町工場で出会ったジャーナリスト益田(生田斗真)と、幼少期に殺人を犯した鈴木(瑛太)。心の内をさらけ出して仲良くなっていくふたりと、次第に明らかになる鈴木の経歴。友情と現実に板挟みにされた益田のやり場のないモヤモヤは、観る者を圧倒する迫力がある。


そして、それらを彩るのは数人の『殺人者』たち。彼らもまた、自らの犯した過ちに苦しみ続ける者であった。幸せになろうとしても、過去の殺人が足枷となってしまう。夢破れ、阻害され、反感を買う人生。彼らは幸せになれるのか……。


今作を『面白い』と感じる人は、心に何かしらのわだかまりを抱えている人のはずだ。上手くいかない人生にやきもきしていたり、周囲に作り笑顔を振り撒いて『いい人』を演じていたり。そんな生き地獄のような毎日を過ごしている人たちにとっては、この映画は間違いなく刺さる。


逆に、毎日が楽しくあっけらかんとしている人の目には、この映画は『駄作』と映るだろう。退屈で冗長で、つまらない映画のひとつとして、忘却の彼方に追いやられるのが関の山だ。


さあ、これを読んでいる読者の皆さんの目には、『友罪』はどう映るだろうか。最高?最低?ベスト映画?クソ映画?


もちろん、観なければ何も分からない。ぜひ劇場の大きなスクリーンで、最高で最低な人間ドラマを、どうか体感してほしい。


それでは。