キタガワのブログ

島根県在住。文筆。rockinon.com外部ライター等。

きっと明日こそは

時刻は午後21時を回った。当日が祝日であることも鑑みて、漠然と「今日は遅くなるだろうな」と思っていた事前予想は見事的中し、この日は久方振りの長時間残業だった。ふらつく足取りで休憩室に赴くと、数人の同僚がああだこうだと談笑して過ごしている。素早く着替えを済ませ、更衣室の外に出る。ある種労いの雰囲気が休憩室を包み込んでいる今の状況ならと半ば期待した僕だったが、勇気を振り絞って放った「お疲れ様でした」との一言は普段と同様、誰しもの表情を一切動かすことなく霧散した。心のざわつきを察知した僕は、消えるように休憩室を後にする。背後から聞こえる、時間経過と共に益々トーンを高めていくそれを遮るように、僕はイヤホンのボリュームを上げて重い扉を開け、まだ肌寒さの残る暗闇に飛び込んだ。

悪いことは重なるもので、駐輪場に足を踏み入れた瞬間、自転車の後輪が潰れていることに気付く。僕は直感的に察した。自転車にとって最悪の悲劇との呼び声高い、あの『パンク』である。おそらく出勤時にどこか鋭い箇所にでもぶつけたのだろう。思えばこの中国国籍たる全身黒色のニューパートナーを見初めたのは僅か3ヶ月前。つくづく人生は無情である。

……このままでは帰宅出来ない。ただ、誰もが一瞥もしなかった数分前の出来事が頭を過る。僕には胸襟を開いて会話を展開可能な仲の良い同僚はいないし、ましてや見境なく「パンクしたんで乗せてください」など言える柔なプライドさえ持ち合わせていない。では、実家に電話して迎えに来てもらうか?いや、そもそも車で来たとしても自転車をフラットシートに乗せる車内容量すらないため、考えることすらもはや無意味である。こうして僕は泣く泣く長い道程を、役立たずのボンクラスクラップを引き摺って帰る決意を固めたのだった。

ただ奮起した当初こそ意気揚々「よっしゃやったるで」と自転車をふんぬと押しながら目的地を目指した僕だったが、直ぐ様現実に直面した。後輪が明らかに重すぎるのだ。ふと後輪に目をやると、パンクしていると思っていたそれは実際チューブ本体に問題があるらしく、持ち上げた時こそ一見スタンダードだが、後輪が地面に触れたが最後ギャリギャリと音を立て、地面との摩擦でほとんど動かなくなる始末。故にこのスクラップを動かすにはサドルを力任せに持ち上げながら進むか、はたまた周囲に鳴り響く異音を覚悟で前へ前へと押し続けるかの2択を迫られた。通常の通勤時間は30分少々だが、この道程を徒歩、しかも常時力を振り絞る行為が不可欠な現状、考え得る限り最悪の地獄の道程となるのは確実だった。

……異音を響かせながら歩道をようやっと4分の1を越えたかというところで、早くも僕の心はポッキリと折れかかっていた。肉体的な疲労も勿論のこと、頭で考えるのは圧倒的に精神面であった。良い歳して車も運転出来ない無能感、どうあっても相手にされない人間関係構築不全、夢追い人として最底辺の地位……。ただただ足を前に動かすのみという無機質なルーティーンが、否が応にもネガティブなリアルを脳に伝えてしまっていた。

次第に脳裏でボリュームを増していく悪魔の呟きに堪えかねた僕は、帰路の途中にあるコンビニエンスストアで2本のビールを購入し、そのうちの1本を一気に流し込んだ。延々と思考を続ける脳内の動きと、ある種思考を麻痺させる幻覚剤じみたアルコールで考えを中和をさせようと試みた苦肉の策であったが、およそ効果は抜群で、希死念慮にも似た思いはいつしか記憶の彼方へ吹き飛ばされ、最終的には耳元で流れる音楽へ完全に没入するまでに改善した。

汗だくになりながら自転車を押し続けて数十分。最大の山場である登り坂を抜けた頃には、時刻は既に22時を回っていた。人も車も、夜道を照らす街灯すらない道程をひとり突き進んでいると、まるで自分以外の人間が世界から消失した感覚さえ抱いてしまう。どことなくダウナーな風景を自身の両レンズにおさめながら、一休憩とばかりに僕は2本目のビールを開けた。まさかこんな夜中に飲酒状態で自転車を押す人間がいるとは思うまい。僕は勝手に勝ち誇った。……その思いは誰に対してだろう。分からなかった。

実際心中の高揚感とは裏腹に身体はほとほと疲れ切っていたらしく、僕はゴール手前であるはずの自宅まで僅か数十メートルに差し掛かった頃、気付けば道端に腰を降ろしスマホを見詰めていた。時刻は23時。本来ならばすっかり自室に帰還している頃合いだ。店中を駆け回ったフルタイムワークに加えて、この重労働である。足は完全に棒になりもはや歩く気力さえない。酔いもすっかり覚めていて、何の役にも立たない時間外労働の疲労と虚無感が頭を支配していた。けれどもそのままズルズルとスマホを見続けることはナンセンスである。最後の力を振り絞り、遂に遠路はるばる僕は帰宅したのだった。

帰宅後、僕は燃やせないゴミのペダルペールを開けると、そこに先程のビール缶を2本、ガシャガシャと放り込んだ。背後から親父による「お前どっかで飲んできたんか」との声が聞こえた気がしたが、僕は答えなかった。取り敢えず冷蔵庫から大量に並べられたビール缶のひとつを手に取り、僕は自室に上がった。最後まで自転車が壊れたことは言えずじまいだったが、どうせ何も言わずとも明日には気付くだろう。

無情にも、明日も仕事である。更には明日は少しばかり早起きし、自転車を修理に出さねばならない。当然その道中は今回と同様、鉛のように重くなった鉄屑と一心同体である。ビールを一気に呷り寝床に入ったは良いが、翌日のことを考えれば考えるほど、思考は先の見えない泥沼に嵌まるようだった。ただ、この数時間で得たものもある。無意味にも思える此度の経験は決して無駄ではない。否、無駄にするも教訓にするも、全ては自分次第なのだろう。明日はきっと良い日になると願って、僕は妙に重い瞼を閉じたのだった。

 


高橋優初監督MV作品「明日はきっといい日になる」オモクリ監督エディットバージョン(Short size)