キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

【音楽文アーカイブ】wowakaのいないヒトリエを初めて聴いた日 〜未だ見ぬ答えを探す旅〜

「6月1日に『wowaka追悼 於 新木場STUDIO COAST』を行うにあたって、その日が何かの区切りになるわけではないと言いました。僕らは今までヒトリエが生んできた曲を、wowakaが歌った曲を、過ごした時間と場所を、必要としたままでいいと思っています」
 
「ただどんなに考えても、これからヒトリエとして何をやるべきなのかわかりません。 この先何年時間をもらったとしても、正解なんて出せる気がしません」
 
「だから1度、3人でツアーに出ようと思います」
 
バンドメンバーであるイガラシ(Ba)による上記のコメントが公式サイトにアップされたのは、wowakaがこの世を去ってから約2ヶ月半後のことだった。ヒトリエは活動休止も解散もすることなく、再び歩む決意を固めたのである。
 
……ヒトリエの中心で高らかな歌とギターを響かせていたwowakaは4月5日、若くしてこの世を去った。享年31歳。あまりにも早い別れだった。
 
当然の如くバンドの中心人物であるwowakaの急逝は、ヒトリエに暗い影を落とした。全国ツアーはキャンセル。各地のフェス出演も見合わせる事態となったのはもちろんのこと、今後の活動の目処自体が一切立たない状態が続いた。ボーカルとギターのみならず、全楽曲の作詞作曲を務めていたwowakaの死。それはバンドにとってあまりに絶望的で、また危機的状況であったのは言うまでもないだろう。
 
だが彼らは止まらなかった。6月に行われた追悼会での「絶対、絶対会いましょう」との言葉を体現するかのように、7月には『HITORI-ESCAPE TOUR 2019』と題された全国ツアーの開催を発表。そのライブの地として選ばれたのは、ニューアルバム『HOWLS』のリリースツアーで本来回る予定であったライブハウスを含む15ヶ所だ。
 
そう。今回のツアーは、世間一般的なライブツアーとは一線を画すものである。追悼会のような画面越しではなく、現在の『生のヒトリエ』をいち早く見届けることの出来る貴重な機会。僕はすぐさまチケットを入手し、片道3時間をかけ、一路広島に向かった。
 
会場中に入ると全会場がソールドアウトということからも分かる通り、見渡す限りパンパンの客入りだ。グッズの販売列には早くも長蛇の列が出来ており、狭い通路に大勢のファンが密集する事態と化していた。中には過去のツアーのTシャツやタオルを身に付けたファンも多数見受けられ、今回のライブにかける熱い思いが伝わってくるようでもあった。
 
定時を少し過ぎ、Foalsの『On The Luna』のSEに乗せてステージに降り立ったメンバーは、ゆっくりと定位置に着く。向かって右側にシノダ(Vo.Gt)、左にイガラシ、その後ろにゆーまお(Dr)……。今まで何度も観てきた光景がそこにはあった。

ただひとつだけ違ったのは、本来wowakaが立っているはずの場所だけが、ぽっかりと抜け落ちていたこと。仕方のないことではあるものの、その光景を目の当たりにした際に覚えた瞬間的な喪失感は、どうしても抗えない感情だった。
 
チューニングの後にシノダが「ヒトリエです。よろしくどうぞ」と短く発すると、数々のライブでオープナーを飾ってきた思い出深い楽曲が鳴らされる。
 
瞬間僕を襲ったのは、強い違和感だった。
 
理由は主にふたつある。まず第一に、ギター1本分の音が消失していたこと。リードギターを担当していたシノダがギターボーカルに転向することや、それに伴ってギターパートをひとり分削らざるを得ないといった情報は、4月に行われた『wowaka追悼 於 新木場STUDIO COAST』の時点でも明らかになっていたし、自分自身もそうしたかつてのヒトリエとは異なる事象を事前に飲み込んだ上でライブに臨んだつもりではあった。
 
しかしながら、実際に対峙したそれは物足りなさを味あわせるには十分なものだった。その根拠はあまりにも単純で、ヒトリエの楽曲はシノダとwowakaのふたりのギタリストが呼応して初めて成立するように、綿密に計算されているからである。
 
6月のライブで「忙しい曲ばかり作りやがって……」とシノダが語っていた通り、『演奏』という一部分だけを切り取ってみてもヒトリエの楽曲の難易度は極めて高い。BPMの遅い曲ならいざ知らず、アッパーな楽曲ではチョーキングや速弾きを駆使したものが多く、加えてブレイクの時間もほとんどないため、基本的にwowakaとシノダのギターは楽曲の始まりから終わりまで鳴り続けている。
 
そんなギターの音色がひとつ無くなるということは、ヒトリエをヒトリエたらしめていたメロディーラインの根幹を揺るがしかねない致命的なものであり、特に過去のライブに一度でも参加したことのあるファンにとっては『音の厚み』という点では物足りなさを感じたことだろうと思う。
 
そして何より『歌い手が異なる』という最大の相違点に関しては、ライブ中常に頭の片隅にモヤモヤとした感情として残り続けており、数週間が経過した現在においても完全には飲み込めないでいるというのが正直なところだ。
 
ヒトリエの楽曲のキーは高い。男性の声域は人によって様々なので一概には言えないが、サビ部分に関しては少なくとも世間一般的に例えられる『カラオケで歌うには結構キツい』部類には入ることだろう。
 
しかしながらそのwowaka特有のキーの高さこそが、ライブにおいて重要なストロングポイントとして確立していたのも事実なのだ。
 
話は少し脱線するが、例えばフェス会場等で通常のトーンで話した声が「え?」と聞き返されたり、逆に雑踏の中で、高い声だけは空間を切り裂くように聞こえるといった経験がある人は少なくないと思う。……とどのつまり低音というのは、周囲の音に埋もれやすい。このことを踏まえると、バンド全体の音圧が大きいヒトリエにとっては口をさほど開かずとも遠くまで響くwowakaのキーの高さは、思えば絶妙にマッチしていた。シノダのボーカルも決して悪くはない。悪くはないが、wowakaよりもシノダのボーカルは若干の低音であることや、何よりもヒトリエのライブに何度か参戦してきた身としては、どうしても比較せざるを得ないものだった。

……さて、ここまでは主にマイナス面ばかりを列挙してきた。今回のライブは前述したようにサウンド面の物足りなさやボーカルの変更と、今までのヒトリエの音楽に触れたことのある人であればあるほど、ある種の喪失感を抱かせるライブであったのは紛れもない事実だ。これらについてはファンも、そして残された3人のメンバー自身も今後向き合い続けなければならない重大なポイントである。
 
だが「新生ヒトリエのライブは悪かったのか?」と問われれば、そうではないとも断言できる。確かな違和感は拭えないにしろ、むしろ新鮮さや将来性といった意味合いで考えれば、今後の無限の可能性を予見するライブであったとも思うのだ。
 
かつてのフォーピース時代のヒトリエと大きく異なる部分として、今のヒトリエには強い『慎重さ』と『一体感』があった。
 
今回はヒトリエの8年間の活動の総決算とも言えるライブで、新旧織り混ぜた磐石のセットリストで進行していた。故に必然、所謂ヒトリエ印のアグレッシブな楽曲も数多く演奏されたのだが、それらに関してはフォーピースの頃と比較すると特に丁寧に鳴らされていた印象が強かったのである。
 
ライブ中、イガラシお馴染みのヘッドバンギングは少なく、ゆーまおは頻繁にメンバーに目を配り、リズムを刻んでいた。シノダはwowakaが作詞した言葉のひとつひとつを噛み締めるかのように歌い、特にwowakaのギターパートについてはバンドを結成して間もないライブの如く、慎重なアンサンブルを響かせていた。それは『今後も変わらずヒトリエを続けていくその第一歩』という気持ちの表れであり、同時に『wowakaの作った楽曲を後世に残す』というある種の使命感もあったのではと推察するが、とにかく。そうした熱のこもった丁寧な演奏の数々には、並々ならぬ決意を感じた次第だ。
 
そして何よりも会場を包み込んでいた強い『一体感』について書かざるを得ない。
 
ここで言う『一体感』とは、何も大きな歓声が挙がったとか、コール&レスポンスの盛り上がりが凄まじかったとか、そうした類いの話ではない。今回のライブにおける一体感の正体は至ってシンプル。ファンの歌声が終始リードしていた。たったそれだけだ。しかしたったそれだけのことが、何よりも雄弁に『ヒトリエの選択は100%正しかった』と物語っていたのである。
 
僕個人としては、wowakaが亡くなって初のツアーということもあり、てっきり悲壮感の漂うパフォーマンスに終始するものだと思っていた。しかし「ボヤボヤしてるとあっと言う間に終わっちまうぜい!」と叫んだシノダに起きた自然発生的な笑いに、「何がおかしいんだよ!」と返して更に笑いが増幅した冒頭を観て、集まった観客は理解したはずだ。少なくとも今のヒトリエは、悲しみをステージ上で表沙汰につもりは一切ないのだと。そしてそれが何よりもヒトリエとしての信条であり、wowakaへの手向けであることも、きっと彼らは理解している。

日本におけるライブの合唱は、基本的にはアーティスト側が扇動して行われるものだ。だが今回のライブでの合唱は「歌ってくれ」と促されたわけでもない、無意識的な熱意と愛情で形作られた大合唱だった。中でもボーカロイドシーンに一石を投じたwowaka名義の『かの名曲』の「もう一回!もう一回!」の大合唱は思わず目頭が熱くなってしまう代物であり、今後のヒトリエの輝かしい未来を占う試金石のように響いていた。
 
その後のメンバー紹介で、シノダは最後に「作詞作曲、wowaka!」と叫んだ。wowakaはもうこの世にいない。だが今までも、そしてこれからも。彼は彼の音楽を必要とする人たちの心の中で、いつまでも生き続けるはずだ。
 
繰り返すが、新生ヒトリエはまだまだ発展途上である。そして彼ら自身もそうした事柄を熟知した上で、ツアーを回っている。何もこのツアーでのヒトリエが完成形であり最強の存在であるとは、露程も思ってはいないだろう。
 
しかしwowakaのギターの音源をオケで流すわけでもなく、サポートメンバーを入れるわけでもなく、徹頭徹尾3人の力だけでやりきった今回のライブは、間違いなく今後のヒトリエのための大きな一歩となった。ファンそれぞれに思うところはあって然るべしだとは思うが、少なくとも今回僕が参加したライブにおいて、『みんなのヒトリエ』は確かにそこにあった。
 
wowakaがいないヒトリエは嫌だ?活動再開は嬉しいけどモヤモヤする?……賛否両論、大いに結構。これからのことは彼ら自身が証明してくれるはずだ。今までヒトリエを聴いてきたファンも、そうでない人も、一先ず黙ってライブに行くべし。全ての話はそれからだ。


※この記事は2019年10月17日に音楽文に掲載されたものです。