キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

【音楽文アーカイブ】“それぞれの夜”に響き渡った人間讃歌 〜amazarashiライブツアー『未来になれなかった全ての夜に』ライブレポート〜

去る5月31日、amazarashiのワンマンライブツアー『amazarashi Live Tour 2019 未来になれなかった全ての夜に』の広島公演が、上野学園ホールにて開催された。
 
スマートフォンアプリを用いて検閲を解除するという、前代未聞のライブを展開した武道館公演から約半年。その間リリースされた楽曲は『さよならごっこ』のシングルのみであり、ツアーは総じてアルバムリリース後に行うamazarashiの通例を初めて覆す形となった今回のツアー。
 
彼らのライブと言えば基本的に、ミュージックビデオが公開されているような代表曲に加えてシングルにおけるいわゆる『B面』に位置する楽曲や、過去のアルバムからのレア曲も多く演奏することから、セットリストの予想が極めて難しいバンドでもある。
 
しかし結論から述べると、今回のライブはamazarashi史上最も代表曲を網羅する、いわば現段階でのベスト盤的なセットリストであった。『メッセージボトル』や『地方都市のメメント・モリ』といったアルバム群、更には最新シングル『さよならごっこ』の楽曲を軸に展開する流れはライブ経験者のみならず、新規のファンをも満足に導くもので、いわばamazarashiの魅力を最大限に見せ付ける大盤振る舞いのライブとなった。
 
会場に選ばれたのは、広島の中心部から電車で3駅ほど移動した先にある上野学園ホール。先行物販の時点で主要なツアーグッズの大半が完売する売れ行きからも、集まった観客の熱量の高さが窺える。
 
会場内に入ると、まず目を引くのは大型の紗幕スクリーン。ステージは薄暗いそれですっぽりと覆い隠されており、背後にあるはずの機材すら伺い知れない。amazarashiのライブではお馴染みの光景ではあるものの、やはりこうして対峙すると明らかに他のライブとは一線を画す異質さだ。
 
定時を10分ほど過ぎた頃、暗転。ギターを爪弾くアンサンブルの直後、爆弾の如き轟音と共に開幕を飾ったのは『後期衝動』だ。
 
〈「誰だお前は」と言われ続けて〉

〈赤字のライブで、だるい社会で〉

〈ラジオに雑誌にインターネット〉

〈誰だお前は?誰なんだ僕は?〉
 
スクリーンの中心にはシルエットで描かれた秋田ひろむ(Vo.Gt)がギターを掻き鳴らす映像が大写しで投影され、その頭上からは痛々しいまでの力強いフレーズの数々が文字通りバラバラになって落下していく。
 
散弾銃さながらに発される言葉の数々、目映い光と爆音、オリジナリティー溢れる映像でもって、目が覚めるような興奮に襲われる。まさに非日常。日本中どこを探してもamazarashiのライブでしか成し得ない、衝撃的な体験がそこにあった。
 
横一列に整列した5人のバンドメンバーは、前後に設置されたふたつの紗幕スクリーンの存在でもって輪郭がぼやけ、おぼろげにしか判別できない。しかしながら秋田の熱の入った絶唱とバンドメンバーの鬼気迫る演奏は、スクリーン越しにも伝わってくる。
 
アウトロの最中「青森から来ました、amazarashiです!」と秋田が叫ぶと、観客は興奮と感動の入り交じった大歓声で答えた。
 
間髪入れずに演奏された『リビングデッド』では、半年前の武道館公演で流れた映像と同じ、言葉を死守せしめんとする言葉ゾンビたちのツイッター上での呟きが次々に表示された。

「もう死にてえ」に代表されるネガティブな表現のみならず、「行きたい方へ自分で行くぜ」といった前向きな言葉すら検閲する新言語秩序(自由な発言を取り締まる自警団)と、彼らに抗おうと自身の思いを発信し続ける言葉ゾンビとの応酬が描かれるのだが、その戦いはまるで現代におけるインターネット上での言論統制や日常生活での『人間かくあるべし』といった固定観念を象徴しているようにも思え、目を釘付けにさせられる。
 
演奏終了後には「言葉を取り戻せ」という最後の呟きが「新言語秩序に違反したため削除されました」という無機質な言葉でもって無に帰すバッドエンドに。この日のamazarashiのライブが初見だった観客も多いはずで、それはかなりの衝撃だったことだろう。暗転後しばらくは無音の時間が続いていたが、後にはっと我に帰ったようにパラパラとまばらな拍手を送っていたのが印象的だった。
 
さて、終盤のMCで秋田が語っていたが、今回のツアーは『かつてのamazarashiを振り返る』という隠れた意味合いが込められていたそうだ。
 
amazarashiのライブでは美麗な映像表現も大きな見所のひとつとして挙げられるが、秋田の発言を体現するかのように、今回使われた映像は半年前の『朗読演奏実験空間 新言語秩序』や、そこから遡ること半年前の『地方都市のメメント・モリツアー』、更には2017年に開催されたベストアルバムリリースツアーである『メッセージボトルツアー』で使われた映像が大半を占めるという、およそツアーごとに映像を一新してきたamazarashiにとっては非常に挑戦的なライブだったとも言える。
 
歴代のCDジャケットやPVが断片的に流れる『ヒーロー』や高速道路で終わりなき旅路を表した『スターライト』、マンガとのコラボレーションを果たした『月曜日』、手書きの文字でifの世界を空想する『たられば』……。歴代のライブに参加したファンからすれば新鮮味は薄いだろうが、とてつもなく高い没入感を覚えるこれらの映像は、amazarashiのライブにおけるひとつの完成形であると改めて感じられ、感動的に映った。
 
最新シングルに収録されていた2曲が終わると、ゆっくりと秋田が語り始める。
 
かつて希死念慮に苛まれ続ける、あまりにも空虚な『0の時期』があったこと。その0が音楽を始めたことで1に、仲間が出来たことで10に、理解者が増えたことで100へと、次第に大きな『生きる意味』となっていったこと……。amazarashiの音楽は全てそうした秋田の辛い実体験を元にして作られているのは周知の事実だが、こうして直接話を聞いていると、『音楽』は彼自身が生き延びるために必要な手段であったことがよく分かる。
 
「数年前のあの頃、わいは確かにゼロでした」と呟いて始まったのは『光、再考』だ。
 
〈ぶつかって 転がって 汗握って 必死こいて〉

〈手にしたものは この愛着だけかもな〉

〈まぁいいか そんな光〉
 
肉体労働系のアルバイト。動員が増えないライブ。コミュニケーション不随……。そんな東京での下積み生活に精神的に限界だった秋田は地元である青森に舞い戻り、この楽曲を制作した。そう。『光、再考』は0からの再スタートの意味合いが込められた、いわば新たな始まりの曲とも言うべき楽曲なのだ。
 
スクリーンには『光』の文字が大写しにされ、目が眩むような光が網膜を刺激する。豊川真奈美(Key)の奏でる柔らかなキーボードサウンドとバンド演奏、秋田の歌声が見事に合致し、感動的な空間を演出していた。

その後は四方八方から噴出した煙に歌詞が投影された『アイザック』、突風の中歌詞が周囲を駆け巡る『季節は次々死んでいく』、マネキンが痛々しい最期を迎える『命にふさわしい』と続いていく。
 
中でも『季節は次々死んでいく』と『命にふさわしい』はamazarashiの楽曲の中でもカロリー消費量の多い楽曲のため、どうしても喉の調子を心配してしまう自分がいたのだが、秋田の声はいつになく安定しており、魂の叫びとも言うべき高らかな歌声を響かせていた。
 
映像を投影せず歌と演奏のみでスタートした『ひろ』は、間違いなく今回のライブにおいてのひとつのハイライトであった。
 
かつて高校卒業後にバンドで上京しようと夢見ていた秋田だが、そのバンドはとある友人の急逝により、事実上の解散に追い込まれる事態となった。
 
……彼こそが秋田ひろむを秋田ひろむたらしめた重要人物のひとりであり、当楽曲で『ひろ』と繰り返し歌われる、交通事故により19歳で亡くなった友人である。
 
演奏前、秋田は「あの頃から背後霊に取り憑かれている気がします」と語っていた。その言葉から察するに秋田にとってひろの存在は、苦難の道を進む上でのある種の救済だったのだろう。仕事の失敗で頭を下げ、歳を取るにつれ格好悪い大人になっていく現状を「お前が見たら絶対 絶対 許さないだろう?」と絶唱する秋田は天国のひろに叫んでいるようにも見え、改めてこの楽曲の重要性に気付かされた瞬間だった。
 
『ライフイズビューティフル』終了後は、長尺のMCへ移行。「広島、ありがとうございます」と秋田が呟くと、会場は大きな拍手に包まれる。
 
「広島に来るのは……3回目くらいでしたっけ。あの頃はアルバムリリースしてからのツアーだったんですけど、武道館が終わって。今回はそういうのなしでやりたいなと思って、こんな形になりました」
 
自身の伝えたい言葉を限界まで詰め込んだ楽曲群とは裏腹に、ぽつりぽつりと言葉を選びながら話す秋田。鬼気迫る歌唱や壮絶な演奏を観ていると遠い存在にも思える彼だが、MC中は温かな人間味が感じられ、一気に距離が近くなったようにも錯覚する。
 
特に「広島に来ても毎回ライブしてホテル帰って、食べに行ってっていうのばっかりで、あまり観光とかは出来てないんですけど……」と笑いながら語る秋田は、今までに観たどのライブよりも穏やかな印象を受けた。
 
「もう少しでamazarashiのライブは終わります」と語った直後に鳴らされたのは、半年前の武道館公演でラストを飾った『独白』だ。
 
〈奪われた言葉が やむに止まれぬ言葉が〉

〈私自身が手を下し 息絶えた言葉が〉

〈この先の行く末を 決定付けるとするなら〉

〈その言葉を 再び私たちの手の中に〉
 
秋田が記した小説の第四章において、新言語秩序に加担する実多(ミタ)と、言葉ゾンビのリーダーとして君臨する希明(キア)は直接対峙した。当初描かれていたラストでは、実多は希明の殺害を実行。事実上は新言語秩序側の勝利で収束してしまう。
 
しかし隠された『第四章・真』なるテキストでは、全く異なる終わりが描かれる。ここでは希明を殺害することはなく、言葉を嫌悪していた実多が自身の思いを吐き出す……つまりは新言語秩序にあるまじき『言葉を殺さない』という選択をする。

彼女が今まで言葉に出来なかった思いの数々。それが『独白』で描かれている内容の全てだ。武道館公演のコンセプトに沿った作りのこの楽曲が今回鳴らされたのは、正直意外ではあった。しかし『後期衝動』にて「僕は言葉で会話がしたいよ」と歌っていたことから推察するに、この楽曲は実多の最大限の意思表示であると共に、秋田自身の心からの叫びでもあったのだ。
 
秋田による「言葉を取り戻せ!」のリフレインが終盤に近付く中、観客の誰しもが思ったはずだ。「これで今回のライブは終わりだろう」と。しかし次の瞬間、何の前触れもなく始まったイントロに、耳を疑った。
 
最後に演奏されたのは、なんと未発表の新曲『未来になれなかったあの夜に』だった。事前告知は一切なし。発売時期……というより実際に音源化されるかどうかも未定のこの楽曲こそが、『未来になれなかった全ての夜に』と冠された今ツアータイトルの意味するところであり、同時に『今のamazarashi』が凝縮された重要な1曲でもあったのだ。
 
メロ部分の「一人で泣けば誰にもバレない」、サビ部分における「未来になれなかったあの夜に」に象徴されるように、この楽曲はひたすらに孤独な日常を歌う内容になっており、終始穏やかに進んでいく。既発曲で例えるならば『月が綺麗』や『終わりで始まり』、『ライフイズビューティフル』の雰囲気に近いだろうか。個人的には今後amazarashiのライブにおいて、どんな場面にも対応できる万能型の楽曲という印象を受けた。
 
ギターのノイズの海に呑まれながら、秋田が語り始める。「未来になれなかった全ての夜に。これでamazarashiのライブは終わりです。また生きて、どこかで会いましょう」。
 
「言葉にならないことは言葉にするべきです。どんな状況であっても。最後に言いたいことはひとつだけ。ありがとうございました!」と最後に秋田が叫び、この日のライブは終演した。
 
……客電が付き『さよならごっこ』の音源が流れる中、会場を後にする。開始から終了まで約2時間。amazarashiでしか成し得ない壮絶な体験がそこにあった。
 
amazarashiはロックバンドだ。しかしながら彼らのライブは世間一般のロックバンド然としたロックバンドの姿とは一線を画す。彼らのライブが終わった頃には決まって、壮大な映画を観終わったかのような多幸感が体を支配するからだ。
 
個人的な話になるが、僕は今回のライブが通算で5度目の参加となる。もちろん数年前に体験した数回こそ毎回号泣し映像美にも圧倒されたものだが、正直な気持ちとして、5度目ともなるとある程度感動に慣れてしまっている部分は否めない。
 
しかしながら、僕は今回のライブはとても良いものに感じられた。セットリストや映像に既視感を覚えたにも関わらず、である。その理由を終演後に考えていたのだが、ようやくひとつの結論が出た。僕は純粋に、彼らの楽曲の持つ力に支えられてきたのだと。
 
amazarashiの音楽には闇がある。気の知れた仲間や職場の同僚にも絶対に表沙汰に出来ないような、鬱屈とした闇が。どこにも吐き出せないそんな闇をamazarashiは裸の言葉で吐き出しながら、光に変えていく。ライブにおける衝撃というのはそれに伴う演出や映像美なのであって、根底にあるのは純粋に楽曲自体の説得力と包容力なのだ。
 
amazarashiは今後も音源をリリースし、ライブ活動を続けていくだろう。僕はふと「これからもずっと彼らのライブに行くんだろうな」と思った。辛いことだらけの人生ではあるが、彼らの音楽に励まされ、時たまライブに行くことが出来るのなら、こんな人生も悪くない。
 
自己嫌悪に苛まれる夜。後悔する夜。死にたい夜……。今まで様々な夜を体験してきたが、ひとまず今夜は「生きてて良かったな」と心から思えた。

 

※この記事は2019年7月12日に音楽文に掲載されたものです。