キタガワのブログ

島根県在住。文筆。rockinon.com外部ライター等。

道。真っ直ぐ、ひん曲がる。

最近「日々の消化ペースが早い」と感じることが時たまある。1ヶ月、2ヶ月。気付けば半年と刹那に過ぎ去る日常。未だ20代前半だった頃と比較しても明らかだ。これが果たして世間一般的に謳われる「○歳になってからは過ぎるの早いよ」と称される加齢によるものなのか、はたまた様々な経験値を重ねて温和になった故のものなのか定かではなかったが、ようやっと僕はひとつの結論に至った。

思えば『心の底から何かを楽しみに生きる』という経験を、もう1年余りに渡って得ていない。人それぞれの重要物が存在して然るべしであろうが、僕にとってそれは紛れもなく『ライブ』だった。ライブから逆算して執筆活動に励む。貯金をする。バイトを入れるなど、ライブを月々の計画に組み込んで日々を生きることが大半であった。であるからこそ常にカレンダーを見る癖が付き、回り回って「このライブの日までにこれとこれを終わらせて……」といった意識的な思考に変換することが出来ていたのだ。

ただ県外遠征はおろか外出すらままならない状況が1年も続いていれば、必然日々の重要性は薄れ行く一方。僕が自室で虚無的に過ごすこの間にもどこかでライブは行われていることだろうが、3時間ほどバスに揺られれば着くような隣県・広島に行くことすら憚られてしまう、そんな悲しき今である。どうしてこうなった。どうしてこうなった。……もはや説明するまでもない。世界中を窮状に貶めた戦犯はコロナウイルスただひとつである。

外出自粛が1年前と同程度に叫ばれ続けている渦中にあっても、昨今は『路上飲み』や『自粛疲れ』といったフレーズが飛び交うことも増えた。僕の住む島根県でも、外の人出はコロナ前の状況と然程変わりがない。執筆がてら頻繁に駅前のカフェに赴いた際にも特に人手が減った感覚はなく、むしろ場所によってはコロナ蔓延前よりも人の動きが大きいと感じることさえある。中でも中学生~高校生はかなり多い印象で、当然デパートなど大型施設のフードコートでは透明のアクリルパネルが設置されていたり、距離を離すよう工夫が凝らされてはいるものの、半ば当たり前に席を近付け、マスクをずらして語らう場面も多い。そしておよそコロナ禍としてはあるまじきそれを横目に見る我々も対して気にも止めていない、というのが正直なところで、別段「非常識だ」とも思わない。むしろ確かに感染リスクはあるが、僕個人としては「中高生に酷な自粛生活を送らせるより精神衛生上良いのでは?」とも思ってしまうほどである。

同様に、飛沫感染のリスクの高い場所においても人の密集は存在する。例えばカラオケでは満席とまではいかないまでも、外には大量の自転車と車が停まっている。居酒屋も依然人が多い。これらの事実を鑑みるに、今島根県では何を差し置いても『県外移動』が最も個々人で回避すべき手段として見られているのではと推察してしまうのだ。

であるからこそ冒頭に綴ったように、かつて僕自身が生き甲斐としてきた『ライブ遠征』は考えれば考えるほど、絶対的に不可能な代物だと思えてくる。確かに1日中マスクを着用し、誰とも会話をせず、厳かに他県に移動することは出来るだろう。ただ万が一感染してしまった場合、その人生は文字通り崩壊してしまう。しかも他県に行った理由が『ライブ』との趣味の一環であればなおさらだ。温和な人間を変貌させるスイッチが存在するとして、『コロナ感染』の実績解除が正にそれ。取得した瞬間に一網打尽にされること必至と言える。

他にも近所付き合いで人と人との距離が近いこと、島根県は高齢者の占める割合が全国で最も高い(重症化しやすい)ことなど元々田舎の良さとして確立していた部分が、コロナ禍の現状を考えた場合に問題点が山積していることにも気付く。県外に移動することで初めてライブに触れることの出来る身としては、やはり辛い。観たくて観たくてしょうがないバンドのライブが、車で数時間移動した先では今や普通に行われている事実が「今すぐライブに行け」と日々僕を駆り立てるが、命と世間体を引き換えにするものではないということも明らかだった。気付けば僕は今日も『ライブに行くために始めたバイト』に忙殺されていて、『ライブがあったお陰で降り注いだかつての幸福』からは縁遠い暮らしを営んでいる。確かにライブに行かないことで金は貯まった。ただ、僕にとってライブに行けないメリットはたったそれだけで、その何十倍も今の暮らしは苦しい。加えて収束の見通しすら立たないとくれば、憂鬱がのし掛かるのも必然であろう。

……嗚呼、悲しき人生。しかしながら間違いなく、この自粛生活にはいずれ終わりが到来する。それまでは辛いながらも、今出来る行動を実行に移す以外にない。眼前に広がる進路はひん曲がっているが、それでも。僕は今日も酩酊の果てのような覚束無い足取りで、吹けば飛ぶような希望を求めながら日々を生きている。