キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

ハロー2021

1月1日、昼過ぎ。雪掻きの音で目を覚ました僕は、そこかしこにビール缶が散乱したベッドからゆるりと起き上がった。昨夜あれほど呑んだ割には二日酔いは軽い方で、久方ぶりの長時間睡眠も作用してか体調はすこぶる良かった。

自室の階段を降りると、休日の習慣としてテレビを点け、ニュース番組を探す。しかしながら無機質な黒き映像媒体は「新年特別企画」と称して駅伝、お笑い、スポーツばかりを取り上げるものばかりで、つまらないことこの上なかった。そんなクソッタレかつ無意味なザッピング時間に辟易した末、僕はおもむろに、パジャマの上に防寒具を羽織った。コロナ禍で迎える新たな年。普段は最寄りのカフェで執筆に赴くところであるが、この日ばかりは当たり前のように行っていた執筆作業ではなく、すっかり新年の様相となった神社へ速やかに繰り出すことが、何よりの最善策のように思えた。

家の窓から見た様子ではそれほど積もってはいない様子ではあったが、路地を曲がると自身の膝元まですっぽり覆い隠す景色が眼前に広がっており、『サッと御神籤を引いてサッと帰る』という事前計画は、早くも破綻した。仕方なく雪を踏み締めつつ歩を進めるも、一向に目的地には辿り着けない。むしろ時間経過と共に遠くなっていく蜃気楼じみた感覚すらあり、「俺は年始に何をやっているんだ」との思いが頭をもたげた。

ようやっと目的地の神社に到着すると、そこは例年通り、大勢の参拝客でごった返していた。実際年末のニュースでは賽銭箱の撤去や出店販売の禁止、果ては御神籤は店員に声を掛けて購入するといったコロナ禍ならではの神社の様子が取り沙汰されていて、僕自身もそうした『例年と異なる神社』を確認する為に半ば冷やかしも兼ねて訪れた節もあった。けれども東京が1300人以上の感染者を出した昨日、何故か47都道府県中唯一感染者が確認されなかった島根県らしく、賽銭箱はもちろん出店も御神籤も例年通り。確かに参拝客は一人残らずマスクを着用しているし、出店には飛沫対策としてビニールが設置されてはいたが、個人的にはもはや見慣れた光景でもあるため無問題。むしろこうした状況下でも無変化に留まった神社に、心臓安堵した自分もいた。

暫くの待ち時間の後、賽銭を投げ込み今年の理想的未来を願う。願ったのはあまりに先の見えない事象でかり、絶対的に自身の努力でしか成し得ない、言わば願ったところでどうしようもない努力の賜物の果てに訪れる希望だった。そう。これは願いではない。言わば自分への戒めなのだ。「年始に願ったのなら本気でやり遂げねばならない」との、悪魔の枷だ。

素早くお参りを済ませた僕は、僅かばかりの期待を胸に待ちに待った御神籤を引く。結果は中吉だったが、心は至ってフラットだった。無謀にも近い運命を願い続けてはきたものの、結果何を願おうと結局は自分の行動次第であることは、身に染みて分かっていた。ここでふと、昨年の行動を自問自答する。

思えば2020年は、日々具現化不能な憂鬱が首をもたげた言わば『絶望の1年』だった。元々の精神疾患に加えコロナウイルスの蔓延、人間関係の悪化、そして何よりライブの中止が相次いだことで、僕はみるみるうちに病んでいった。そうした日常的に襲い来るネガティブな感情を紛らわす為に用いた唯一の手段はアルコールで、日々2リットル以上の酒を依存的にあおり続けた弊害として希死念慮はみるみる増幅した。結果2020年は脳のメモリーから削除されたも同然で、記憶の大半はほとんど思い出せない。改めて回顧しても、ひとつの人生のゲームマスターながらよく死ななかったものだと思う。……今年は良い年になるだろうか。否。良い年にするのは紛れもなく、自分自身である。

御神籤の内容に一喜一憂する家族、及びカップルの笑い声に辟易し神社を後にした僕は、近場にあった公園へと腰を降ろし、普段『万が一の場合』に備えて鞄に押し込んでいたビール缶と、同時に先程出店で入手したベビーカステラを開けた。どちらも味は最低だったが、何故だか心は妙に軽やかだった。新たな1年の幕開けとしては、これくらいが丁度良い。

ビールとカステラを交互に胃に流し込みながら、僕は帰路に着く。滞在時間にして10分程度のものだったが、それでも良いと思えた。途中、雪に足を取られてカステラが落下したが、もう片方の手で握っていたビールは無事に終わった。先程の『中吉』の結果は、強ち間違ってはいないのかもしれない。……僕は僅かに残ったビールを一気に飲み干し、面倒臭い雪道を再び踏み締めた。

 

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