キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

何も考えずブログ書いてみる

車の展示会に行ったとき、eKの車を見てたら店員が「CMでも言ってますよね、買おうと思ったら、迷わなeK!ですよ!」と言ってきたので「買わなeK!」って言って帰った。

 

 

 

新企画『何も考えずブログ書いてみる』。

ルールは
①思考時間はなし。
②感情にまかせてひたすら文字を打つ。
③手元のストップウォッチで30分経過後、強制終了。

僕が得意なテーマで書くとズルいので、テーマは、あえて母に選んでもらった。『茶碗蒸し』だそうだ。なんでだよ。スタート!

 


茶碗蒸しについて、思い出がひとつある。

亡くなった祖母についてだ。僕は、年末やお盆には、必ず祖母の家に遊びにいっていた。「あらぁよく来たねえ」と言うなり、茶碗蒸しを出す。これがいつからか、恒例になっていた。

たしか5歳の頃だったと思う。祖母が初めて茶碗蒸しを出した日のことだ。僕は、中に入っていた銀杏を大層気に入り、「おばーちゃん!銀杏ちょうだい!」と言ったそうだ。

僕が一人っ子であるという理由もあるのだろうが、その場にいた全員が、各自の茶碗蒸しから銀杏のみを取り出し、僕の茶碗蒸しに入れてくれた。その数は、20個くらいはあっただろうか。

当時の僕はそれをうまいうまいと食べ、更にはおかわりを要求したほどだった。

おそらく、それからだ。祖母が、僕が来るたびに、茶碗蒸しを作るようになったのは。そして、茶碗蒸しを作る際には、僕の茶碗蒸しにだけ、これでもかというほどの銀杏を潜ませた。僕専用の茶碗蒸しの入れ物に印を付けるほどの熱の入り用だった。

祖母の家=銀杏の入った茶碗蒸し、という構図が出来てからというもの、僕は正直、銀杏がそこまで好きではなくなってしまった。

嫌いというほどではないが、別にそんなに銀杏を食べたいわけでもない。そんな感じだ。だがその感情は直接言えるはずもなく、心の中にしまったまま、茶碗蒸しを食べる生活が続いた。

ちなみに余談だが、イクラやウニといった、寿司についても同じことが言える。幼少期に「おいしい!おかわり!」と言ってしまったがために、寿司は毎回出前で頼むようになったし、イクラとウニについても僕の皿にてんこ盛りにされる始末だった。ちなみに僕は、ウニが大嫌いだった。何なら、吐くレベルで苦手だった。

当初は「祖母のために」と思って食べてはいたが、僕が20歳を超えたあたりからか。突然、僕は食べなくなった。ウニも、イクラも、銀杏も。全く食べないわけではない。だが、「干渉されたくない」という気持ちもあったのだろう。「ほら銀杏だで」と出された茶碗蒸しに、あるとき、「あの、無理して銀杏出さんでもいいよ」と言ってしまった(正直、毎回食べて飽きてきた部分もあるが)。

祖母は一瞬悲しそうな顔を見せたが、「そげか」と言うだけで、それ以降も同様に銀杏、イクラ、ウニを与えてくれた。

そして去年、祖母が亡くなった。一人暮らしの祖母の家に行ったとき、パアッと明るい顔になった祖母。入院中、年のせいか病気のせいか、次第に記憶が曖昧になりつつある状態で、僕の名前だけは覚えていた祖母。

僕は祖母に愛されていた。溺愛されていたことを、冷たくなった祖母を見て思った。だが、気付くのが遅すぎた。

僕はまだ23だが、人の死を多く経験してきたと思う。親戚、祖父、友人。その都度通夜に参列したり、遺影を見たりしていた。

結論から書くと、僕は祖母の葬式で、ありえないほど泣いた。今まで人生でほとんど泣いたことはないが、それを帳消しにするかの如く泣いた。

祖母を天に送る儀式を終えたあと、母が言った。「おばあちゃんが最期に何言ったか知っとる?」と。

僕は死に目に会えていない。当然、わからなかった。

母が言った。「あの子の茶碗蒸し、作っちゃらんといけんねえ。だって」と。

その日の夜の晩飯は、偶然にも茶碗蒸しだった。銀杏がほとんど入ってない、店で買った茶碗蒸し。

何故だか、味は塩辛かった。