キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

【音楽文アーカイブ】Radio Bootsyが送る『春』という季節 〜作詞作曲者・川谷絵音の言葉で紐解く、春の香り広がるキャンペーンソング“春は溶けて”〜

薄手のシャツを羽織り家の扉を開ければ、穏やかな風が頬を撫でる……。気付けば外はもうすっかり春の陽気である。そんな今春、関西が誇るラジオ局のひとつ・FM802が毎年、春を彩るキャンペーンソングを同局とゆかりの深いアーティストと制作するドリームプロジェクト『FM802 × 阪神高速 ACCESS!』による今年のキャンペーンソングがYouTube上と各種サブスクリプションで公開された。その注目のユニット名はRadio Bootsy(レディオブーツィー)。タイトルは“春は溶けて”で、作詞作曲者は川谷絵音(indigo la End、ゲスの極み乙女。、ジェニーハイetc)。参加アーティストは五十音順に川谷絵音、北村匠海(DISH//)、長屋晴子(緑黄色社会)、ホリエアツシ(ストレイテナー)、三原健司(フレデリック)、yamaら6名。所属事務所も年代も、音楽畑も飛び越えたラインナップには、ただただ驚くばかりだ。


キーボードによる柔らかな音色を主旋律に、楽曲は幕を開ける。どこか春のイメージさえ抱かせるリズミカルな助走を経て、まずはボーカルの先陣を切る形で川谷絵音が《いつぞやの椿/花から花へと/夢のような膨らんだ季節》とふくよかに歌唱。その歌声は高らか、というよりは一言一言を噛み締めるようでもあり、世間一般的な明るい『春』のイメージを瞬時に想起させていく。


続いて川谷からバトンを受け取るのはホリエで、敢えて余韻を残した歌唱を試みていた川谷に対し、ホリエはやや前のめりでシャープ。例えるならば並木道を歩く昼下がり、徒歩から早足になる前に無意識に背筋をグッと伸ばすような、静から動に移り変わる重要な役割を担っている。ストレイテナー結成から20年以上と、およそ今回の参加アーティストの中でホリエは最も音楽シーンでの活動歴が長い人物だが、そんな彼が楽曲全体を形作る重要なポジショニングを任されていることにはファン冥利に尽きるのはもちろんのこと、楽曲を彩る上での最適解であるようにも思える。


一転、次第に熱を帯びるCメロでは新進気鋭のシンガー・yamaがその中性的な歌声を駆使し、爆発的なサビへ至る道程を形作っていく。昨年一大ヒットソングとなった“春を告げる”では言わば『ひとりぼっちの春』について歌っていたyamaが、作為的にコラージュされた春を指し《いつでも新しくなるさ》とある種前向きな思考変換でもって歌唱する様はグッと来るものがあり、またコラボ曲との親和性の高さにも改めて驚かされる。


勢いを増したメロに満を持して参入するのは、緑黄色社会のフロントウーマン・長屋晴子。直接的に天に向かって突き上げるような高らかな歌声でもって、更なる畳み掛けを図る。その歌唱力はもちろんのこと、彼女の歌う内容が「頑張れ」という安直な鼓舞でも「何とかなる」という楽観主義でもなく《僕らはひたすら自由だ》とする、共に歩を進めんとするポジティブな歌詞で締め括られるのも、どこか長屋らしい。


そして4名による幸福たる歌唱の果て、遂に楽曲はサビへと突入する。ここで重要なのはやはりサビで綴られる歌詞。何故ならサビは楽曲の印象部となることから、制作者にとっての強い思いが記されることが多いからだ。そのため《君が好きだってこと以外は/もう何も考えないことにしよう》(indigo la End“藍色好きさ”)、《大人じゃないからさ/無理をしてまで笑えなくてさ/わかってはいんだけど/気付けば周りがくすんでいった》(ゲスの極み乙女。“オトナチック”)など作詞を務めた数ある楽曲にも表れているように、今楽曲の制作者・川谷にとっての真に伝えたいことというのも同様に、サビの歌詞には秘められて然るべしであると考える。


そうした事柄を踏まえて1番のサビを見てみるが《春は溶けて/まばらに色付いて/世界抉ったんだ/幸せだと思える一瞬は/いつでもどこかに》と、どこか抽象的な表現に徹していて、その全体像は上手く掴めない。そこで次は公式サイト内に記載されている川谷本人のメッセージを読み解いてみる。

「距離を保つことが当たり前になりましたが、良い距離感っていうのは悪いことではないし、それによってより個人の時代になったんですよね。人とあまり会わなくなってから僕は思ったんです、みんな自分で思ってるより自由だって。春になったから何か特別なことがあるんじゃなくて、いつでも春は溶けてそこにあるんです」


そこには世間を俯瞰した彼なりの思考の数々が並んでいて、中でも思わず膝を打ったのは「みんな自分で思ってるより自由」という一文だ。この1年の間、総じて『2人以上で何かをする』行為には大いなる制限が課せられた。旅行、カラオケ、ショッピング、カフェ、ゲームセンター等々……。思い返せば、かつて我々が当たり前のように赴いていた施設も、結果2人以上でなければ行かない場所であったという発見もこの1年で多くあったし、1人で過ごすことで当然誰かと行動出来ない不便ささえあったものの、確かに圧倒的な自由度があった。と考えれば《まばらに色付いて/世界抉ったんだ》とする一文は、個々人における孤独とはまた異なる充実を意味していて、更に続く《幸せだと思える一瞬は/いつでもどこかに》は、かつてと比べて個人主義の生き方になったからこそ、逆にコロナ禍で充実を帯びる日常のことを指しているのではなかろうか。


ピアノとドラムが加わったことで、僅かに1番とは雰囲気を変化させた2番からは、新たなシンガーが顔を出す。まず先陣を切ったのはダンスロックバンド・DISH//から北村匠海だ。柔らかで自然体な歌唱でありながらどこか静かな熱さえ感じてしまうその歌声は、目を瞑りながら歌う彼の姿さえ想像してしまう程。昨年一躍注目を浴びた“猫”然り、ドラマ主題歌としてお茶の間に広く響き渡った“僕たちがやりました”然り、他アーティストからの提供曲も多いDISH//だが、それらが完全な形で確立されているのは、様々に印象を変化させる北村による変幻自在の歌唱スキルあってのことだと改めて感じた次第だ。


シンガーからシンガーへと次々手渡されたバトンリレーのアンカーを務めるのは、フレデリックの三原健司。彼特有の少しばかりの揺れを帯びたボーカルでもって、次なるサビへの橋渡しを担う。三原の歌唱するパートも間接的にコロナ禍を表したフレーズのオンパレードであるのは他シンガーと同様ではあれど、フレデリックの楽曲の歌詞はある種掴み所のない浮遊感に徹しているのに対し、今曲では《先は長くむず痒い/登ったり降りたりが/飽きても続くけど》と幾分ストレートで、新鮮。


以降はそれまでのシンガーを代わる代わるスイッチしながら、楽曲はクライマックスへとひた走る。特にサビ部分では全く同じ歌詞であっても歌い手を都度変化させる形で進行し、例えば1番では川谷が歌っていた部分を北村やyama、ホリエが歌っていた部分は三原や長屋に切り替わるなど、また一味違った魅力を醸し出ている点も面白い。ボーカルが変わることで雰囲気はもちろん、歌詞が持つメッセージ性も多様性を帯びる形で聴こえるのは新たな発見であり、またそれぞれのファンにとっても嬉しいところ。

新たに挟まれるCメロ、そして1番と2番でも同様に紡がれてきた《春は溶けて/まばらに色付いて(以下略)》の流れを経て、ラストに待ち受けるのは《大人になり/椿は色付いて/距離を取るだろう/それはそうと/悪くはない話だから》との意味深なフレーズだ。ここで注目すべきは、後半部の《それはそうと/悪くはない話だから》という一節であろう。繰り返すが、否が応にもこの1年を想起させる歌詞を鑑みるにこの楽曲がコロナ禍をテーマに制作されていることは間違いない。翻って今楽曲の制作者である川谷にとっても、ライブ中止を筆頭としてこの1年は強いフラストレーションを抱えるものであったと推察する。ただそんな彼が“春は溶けて”の締め括りとして選択したのは、あまりにポジティブな言葉。人との距離感に悩んでも。自粛生活が続いても。思い描いた生活が打ち砕かれても……。川谷は空元気ではなく本心から《それはそうと/悪くはない話だから》と聴く者の肩を叩くのだ。彼は前述のメッセージの最後に、こう記している。


「明日は来ちゃうし、生きてかないといけないけど、僕らは自由だから。悪くない話でしょう。そんな曲」


つまり彼の考えるコロナ禍の現状は「様々な点で不便にはなったけれど、良いこともたくさんある」ということ。人と関わらなくなった分それによって対人関係のストレスは緩和されたし、自粛生活が今一度自分を見つめ直す契機となった人も一定数存在するだろうし、そうでなくとも外出の機会が減って貯金が増えたり、よりゲームなどの趣味に没頭出来た、といった逆にコロナ禍により日常が晴れやかになった人も、中には我々が思うより遥かに存在するはずなのだ。……『最悪』の反対語は『最高』だが、この1年間、我々は自ら最悪の方ばかりを見つめ続けていたような気もする。けれども思考を切り替えれば素晴らしい日常は今もそこにあって、“春は溶けて”はそんな事実を、力説して伝えるでもなくまさに『溶ける』ようにゆっくりと、楽曲を通して我々に伝えていたのだ。


あの春から1年が経ち、コロナ禍における2度目の春を迎えたが、依然として先の見えない日々は続いている。言うまでもなく、良し悪しで判断すれば現状は悪い。しかしながら様々な制限が課せられる今春に可能性を模索するのもまた、我々次第なのだ。『春』の明るいイメージを携えて、各自の思考を間接的に問う“春は溶けて”。この楽曲がもたらしてくれる救済はズバリ、そうした多面的視点を持ちながら、この困難な時代を今一度見詰めるという一種の『気付き』なのではなかろうか。


※この記事は2021年5月26日に音楽文に掲載されたものです。