11月16日、amazarashi初の日本武道館公演『朗読演奏実験空間 新言語秩序』。開場時間が近づくと、会場前は多くの人でごった返していた。
フロントマンである秋田ひろむ(Vo.Gt)はかつて「世の中にはamazarashiがまったく必要ない人が大半だと思いますが、僕みたいな人間もけっこうな数いる」と述べていたが、そんな彼の思いに共感する人が集い、この日チケットはソールドアウトとなった。そんな光景を、僕は感慨深い気持ちで見ていた。
中に入ると、中央に鎮座された巨大なLEDモニターが目を引く。正方形の形をしており、画面にはライブタイトルである『新言語秩序』、そして今回のライブの肝となる小説のキーワードである『新言語秩序』や『言葉ゾンビ』、『再教育』といった言葉の説明がされている。
定刻を少し過ぎた頃、『通告』の文字がLEDパネルに映し出され、アプリを起動するように指示される。すると画面には黒塗りされた文字が出現。指示されるがままにスマホを向けると、自動的にライトが点灯。黒塗りの文字に集まった無数の光によって、元の文字が確認できるようになった。
歓声に沸く武道館。そう。これが今回のライブの試みであり、『朗読演奏“実験”空間』と名付けられた所以だ。
ここからはアプリを常に表示させた状態でライブに臨む。「アプリを持っていない方でも問題ありません。ここに集まっていること自体が、新言語秩序への抵抗運動です」とのアナウンスに、否が応にも気分が高まる。
数分後に暗転。瞬間、武道館は音と光に包まれた。
1曲目は『ワードプロセッサー』。暴力的なまでの轟音と矢継ぎ早に発せられる言葉の数々、文字通り目が眩むような閃光でもって、意識は異様に覚醒していく。
amazarashiのライブでは歌詞がLEDモニターに次々表示されるのだが、今までのライブと大きく異なる部分として、歌詞は出現した瞬間に黒く塗り潰され『検閲』されていく点だ。
秋田ひろむの力強い歌声とメッセージとは裏腹に、彼の言葉が一瞬にして検閲される様は、ある種言いたいことが言えない社会を象徴しているようだ。
曲終わり、「青森から来ました、amazarashiです!」と力強く叫んだ秋田ひろむに、観客は盛大な拍手で答える。その拍手は今まで参戦したどのライブよりも大きく、心を震わせた。
LEDパネルと暗い照明によって、メンバーの顔は判別できない。しかし存在するのは紛れもなくamazarashiであった。つば広の帽子を被った秋田ひろむ、前ツアーを体調不良で欠席していた豊川真奈美(Cho.Key)もいる。そしてお馴染みのサポートメンバーとの計5名で鳴らされる楽曲は、武道館に力強く響いていた。
続いては先日リリースされたシングルのリード曲でもある『リビングデッド』。昨今ではもはや当たり前となった、各自の意見を発信する象徴とも言うべきTwitterでの呟きが羅列される。そしてここでも、身勝手な言葉や反対意見は軒並み検閲されるのであった。
『空洞空洞』では、『この楽曲は検閲対象です』との表示がなされ、突如スマホが振動。観客こと言葉ゾンビは、次々と言葉を検閲する新言語秩序に、真っ向から反抗する時が来たのだ。
この楽曲においては、前2曲と異なり、事前に全ての歌詞が検閲された状態で表示された。画面に向けられた無数のスマホの光は、少しずつではあるが検閲を薄くさせ、最終的には消滅させる効果を持つようだ。そうして表示された歌詞は、『死にたがる奴らを迫害した』、『みんな死んだ焼野原』といった言葉の数々。
それは目を逸らしたくなるほどに強烈で、しかし検閲解除アプリの存在でもって、絶対的に視界に入ってくる。頭の奥底に侵入し、凝視せざるを得ない。
魂の演奏が終わる頃、モニター上に『機密情報ファイル』と題されたファイルが4つ並んだ。これらは事前にアプリ内で公開されていた小説『新言語秩序』だ。まずは第一章が秋田ひろむによって朗読される。
断片的な朗読かと思いきや、丸々朗読される形。文字の出現の仕方やBGMにも気が配られており、加えて秋田ひろむの声の強弱や息づかいでもって、その重厚なストーリーに没入できた。
第一章では、主人公である実多(ミタ)が言葉嫌いになった理由について明かされた。いじめられ、父親にレイプされ、しまいには父親を殺害するというもの。それら全ての元凶こそが言葉であり、実多にとって言葉は何よりも憎むべき存在となったのだった。
朗読が終わると、『季節は次々死んでいく』から『自虐家のアリー』へ。モノクロのモニターにはとある動画が表示されている。それは『自虐家のアリー』だった。その下にはコメント欄。右には関連動画の数々……。それは某動画サイトと同様の画面であり、僕らが日常的に目にしている光景でもあった。
Aメロの時点で、まずコメント欄に焦点が合う。そこには実多や他の新言語秩序メンバーによる「この動画は“テンプレート逸脱”しています」、「削除願います」といった警告文が羅列されていた。しかしamazarashiの演奏はそれらの警告を無視するように、熱を帯びていく。
すると関連動画に次々と検閲がなされた。『無題』、『フィロソフィー』、『月曜日』といったPVが、新言語秩序によって閲覧禁止にされていく。
『自虐家のアリー』はといえば、歌詞を塗り潰されながらも、メッセージを発しようと懸命にもがいていた。しかし検閲は激しさを増していく。そして演奏終了と同時に、『自虐家のアリー』までもが閲覧禁止となってしまった。
続いてはCMソングとしてamazarashiを知らない人にも届いた『フィロソフィー』、ネガティブな思考を内包しながらも懸命に生きる人間に焦点を当てた『ナモナキヒト』、人生の生きづらさと共に「心さえなかったなら」と考える『命にふさわしい』が順に鳴らされた。どの楽曲も、普段人前で見せられないような弱い自分が引きずり出されていく感覚があった。
第二章の朗読では、言葉ゾンビのデモにおいて、実多が言葉ゾンビのリーダー格である希明(キア)と対峙するシーンが描かれた。結果として希明は確保され、実多は言葉ゾンビの集団に暴力で蹂躙されてしまう。
暴力の嵐に飲み込まれながら実多の脳裏に浮かんだのは、同じように暴力でもって自身を捩じ伏せた父親のことだった。この暴力によって実多は改めて、言葉と父親への憎悪を膨らませていく。
演奏曲においても、まるで二章における実多の憎悪が反映されたようなセットリストとなった。まずは秋田ひろむが「神様、殺してやる」と呟くおどろおどろしいロックナンバー『ムカデ』である。モニターにはデモの様子が映し出されており、その過激さが伺い知れる。
続く『月が綺麗』では一貫して言葉の重要性が語られており、「プライドを守る為に 人を否定なんかするなよ」という歌詞に関しては、まるで実多の思想そのものを否定するようにも聴こえる。ギターをつま弾く冒頭こそ穏やかな楽曲にも思えるが、サビ終わりでは歪ませたエレキギターが耳をつんざくノイジーなロックに変貌。『覆せないものの存在に抵抗する』というこの曲は、今思えばラストの独白への布石だったのかもしれない。
生きる意味を問う『吐きそうだ』から、秋田ひろむの辛い半生を描くポエトリーリーディング曲『しらふ』の流れも秀逸。『ムカデ』と『月が綺麗』のテーマが言葉だとすれば、この2曲は『生』。この時点で、言葉を発することは生きることそのものなのだ、ということを実感させられる。
いよいよ折り返し地点に突入した第三章。この章では、実多の本音が見え隠れする。
“再教育”を施された希明の病室で、実多は「やはりあの時殺しておくべきだった」と口にしてしまう。それこそは“テンプレート逸脱”した言葉であり、同時に“テンプレート逸脱”を何より嫌悪する実多の本心であった。
それを希明に指摘され、実多は怒り心頭に達する。そして改めて、言葉への嫌悪を強めていくのだった。
いよいよライブも終盤に差し掛かり、amazarashiの楽曲の中でも特にメッセージ性の強い楽曲が演奏される。これまでカロリー消費量の多い楽曲を立て続けに歌った秋田ひろむであるが、疲れは感じさせない。むしろより力のこもった絶唱で、言葉を訴えかける。
『僕が死のうと思ったのは』では、冒頭で遺書が投影された。そして後の映像では学校の机の中心に花瓶が置かれ、その下には分かりづらいが、だが確かに大きく「死ね」と書かれている。それは紛れもなく、実多の辛いイジメの経験だった。
〈僕が死のうと思ったのは 心が空っぽになったから〉
〈満たされたいと泣いているのは きっと満たされたいと願うから〉
血を吐くように力強く歌声を響かせる秋田ひろむと楽器隊、心に刺さる歌詞が涙腺を刺激する。演奏が終わる頃には、あちこちで啜り泣く声が聞こえたほど。
「彼らは裁かれて然るべきだ」と語る『性善説』はテンプレート逸脱した希明への皮肉のようにも感じるし、「楽しけりゃ笑えばいいんだろ」「悲しい時は泣いたらいいんだろ」と歌う『空っぽの空に潰される』は、本心を押し殺す実多を諭すかのようだ。
『カルマ』は楽曲のリズムを無視し、歌詞を捲し立てる楽曲だ。その散弾銃の如き言葉の数々は、隠し続けてきた本心に風穴を空ける。
〈どうかあの娘を救って〉
繰り返されるこのフレーズは、紛れもなく実多に向けられたもの。そして物語は、クライマックスを迎える。
第四章では、言葉ゾンビたちによって実多が拘束されてしまう。それを見た希明は仲間を制し、最後に実多に対し「言いたいことはあるか?」とマイクを向ける。
ここで言葉を発するということは、言葉に屈することと同義。実多は隠し持っていたナイフを取り出し、希明の首を一突きする。絶命した希明を見下ろす実多は「私は成し遂げたのだ」と感慨に浸る。
……それこそが事前に公開された小説の結末であり、この行動をもって、言葉は殺される。つまり、実多は自身の本心を無理矢理捩じ伏せ、永久に心に蓋をする。
……そうなるはずだった。
最終章である第四章に差し掛かる前、第四章の横に、ノイズ混じりの謎の章が浮かび上がった。そこには『第四章-真』と名付けられており、次の瞬間には本来の『第四章』を飛ばして『真』に画面がズームした。
その内容は衝撃的だった。
「言いたいことはあるか?」とマイクを向けられた実多は、ステージに上がる。胃の中から逆流する『言葉』に嗚咽しながら。そして、希明からマイクを受け取ったのだ。
物語はここで終わる。それは『言葉を殺した』という第四章とは大きく異なるラストであった。彼女は自身の感情を言葉に変える決意を固めたのである。
こうして、楽曲にも最後のバトンが渡される。日本武道館公演最後の楽曲は『独白』。
先行シングル内では全てにおいて検閲されており、歌詞も歌声も、理解不能なまでにノイズにまみれた問題作だった。そんな『独白』の実体が言葉を解放した実多によって、遂に白日の下に曝された。
〈奪われた言葉が やむにやまれぬ言葉が〉
〈私自身が手を下し息絶えた言葉が〉
〈この先の行く末を決定づけるとするなら〉
〈その言葉を 再び私たちの手の中に〉
『独白』は、言葉の検閲を解除された実多の本心そのものであった。頭の中で、ステージ上の実多が涙を流しながら、胸の内から溢れ出す言葉に身を委ねて絶叫する場面が浮かんだ。彼女の本心は、壮絶な言葉の濁流となって押し寄せた。
〈「言葉を取り戻せ!」〉
この言葉を秋田ひろむは、まるで実多が乗り移ったように繰り返し絶叫した。観客のスマホには『言葉を取り戻せ!』という言葉が画面一杯に表示されていた。
轟音のアウトロの中、秋田ひろむはバンドメンバーに目配せし、武道館をぐるりと見渡していた。泣かず飛ばずのバンドマンであった彼は、かつて武道館横でのアルバイトの最中、激しい悔しさを覚えていたと述べていた。彼にとって武道館は、ミュージシャンにとっての最高峰という以上に、大きな意味合いを持つ場所であったことは間違いない。
しかし彼は、そのことについてライブ中は一切触れなかった。だからこそ最後ぐるりと武道館を見渡した姿が、目に焼き付いて離れない。その姿こそが、何よりも雄弁に物語っていたように思う。
「日本武道館、ありがとうございました!」と秋田ひろむ。対して観客は、惜しみ無い拍手で答えた。
小説『新言語秩序』、武道館専用アプリ、検閲済みの楽曲……。あまりにもコンセプチュアルな試みに対して、当初はどうなるものやらと危惧していた武道館公演だったが、終わってみれば言葉の重要性を説くamazarashiらしい空間を構築していたし、今までの活動の集大成のようでもあった。
「やっぱすげーわ」
鳴り止まない拍手の中、エンドロールをぼうっと見ながら、僕は思った。
そしてそれも『言葉にならない言葉』だったことに気付いて、少し笑った。
※この記事は2018年11月27日に音楽文に掲載されたものです。