キタガワのブログ

島根県在住のフリーライター。ロッキン、Real Sound、KAI-YOU.net、uzurea.netなどに寄稿。ご依頼はプロフィール欄『このブログについて』よりお願い致します。

謎の覆面バンド・Los Infernoの正体は、果たして『何皮の何ーズ』なのか?

こんばんは、キタガワです。


まず始めに断っておくが、僕は今記事で伝えたいことはほとんどない。無論筆を取ったからには今知りうる情報の全てを書き記そうと務めるけれども、今回取り上げる謎の覆面バンド・Los Infelnoの現時点で公開されている情報は自身初音源となる“Dos Dos Dos”とジャケット、そしてそれに付随する事柄のみであり、彼らの魅力を語る上では些か心許ない。更には公式サイトも略歴も、メンバーのプロフィールさえ未だ存在しない。それどころか、おそらく今後Los Infelnoについての一切合切の情報が更新されることは限りなく低いであろうと推察する。……よって今回の記事が『Los Infelnoについての興味』以外の何かを生み出すことというのは、十中八九ないと言っていい。


では何故、僕は筆を取ったのだろうか。頭を絞って考えはみるものの、特筆すべき理由は見付からなかった。今回僕が彼らを紹介したいと思った契機はただひとつであり、漠然と『「書かねば。いや、書かねばならぬ」との酷く本能的な衝動に駆られてしまったため』と形容する他ない。しかしながらこうも思うのだ。本能的に書き殴るばかりで酷く生産性に欠ける今回の記事と、歌詞もサウンドも歪な彼らが鳴らす本能的な猪突猛進型のロックンロールはもしかすると、イコールなのではなかろうか……と。

 

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去る2020年5月22日。Los Infelnoはとある音楽情報サイトに取り上げられる形でもって、ひっそりと産声を上げた。そこには麻袋を彷彿とさせる“何か”を被りポーズを決めるアーティスト写真に加えて初音源“Dos Dos Dos”とジャケットアートワークをプリントしたTシャツの購入リンクが貼り付けられていた。今作は志磨遼平(ドレスコーズ)の主宰するレーベル・JESUS RECORDSからのリリースであり、音源およびTシャツの売り上げは全額、現在新型コロナウイルス対策で休業している新宿red clothに寄付されるという。一見凝縮されたバンドのようにも思える情報量ではあるが同時に、これらが現時点で公開されている情報の全てでもある。


そこからは怒涛のプロセスを経た。謎のサイトに飛ばされクレジットカードとメールアドレスの登録を求められ、日本の文章としての体を成さない恐怖心を底上げする登録完了メールが届き、果ては音源を聴くために『Bandcamp』なるアプリまでダウンロードする羽目になった。同等の月額料金を支払えば大量の音源を聴くことが出来る今の時代に、ここまでの紆余曲折を経て音源は500円……。確かにこのときは「どんな素晴らしい楽曲が聴けるのか」と、心底期待に胸を膨らませていた自分がいた。


しかしながらそうした末に辿り着いた音源は、あまりにも想像を下回るものであった。まず歌詞についてはあまりにザラつきが酷く、何度リピートしてもその内在するメッセージ性どころか、フレーズ自体断片的にしか聴こえない。バンドをバンドたらしめる重要部分であるはずのサウンドについてもお世辞にも良いとは絶対に言えない代物であり、そのガレージバンドを彷彿とさせる音割れやリマスタリングのお粗末さも含め、まるで低品質のイヤホンを介して聴いているかのよう。どんなアーティストの楽曲にも出来うる限り音質を高める試みが成されるのが当然で、たとえ数十年前の楽曲であっても綺麗な音質で再収録することも可能な、音質的に飛躍的な発展を遂げた2020年現在にリリースに至った今作“Dos Dos Dos”は、時代と完全に逆行した恐ろしくチープな出来であると言える。


そんな謎の覆面バンド・Los Infelnoであるが、“Dos Dos Dos”のジャケットが公開された時点である種の既視感を覚え、瞬時に点と点が線になったファンも多かったのではなさろうか。そう。彼らの正体は日本のインディーロックファンなら誰もが一度は耳にしたことのあるあのバンド。2003年に結成され、2011年の年末にその輝かしいバンド人生にピリオドを打った短命のバンド・毛皮のマリーズの元メンバーたちなのだ(正確には、『毛皮のマリーズの元メンバーたちである可能性が極めて高い』といった具合だろうが、これに関してはほぼ間違いない)。

 

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そう判断する理由はひとつ。今回の“Dos Dos Dos”のアートワークが去る2009年4月にタワーレコードとコラボした月刊フリーペーパー、『毛タワのマレコZ(ケタワノマレコーズ)』の写真と瓜二つであるためだ。ライブにおいて、メンバー紹介の後に決まって「そして私がペテン師の志磨遼平です」と語り、メンバーの演奏を無視し全編が弦楽四重奏や管楽器、ピアノで構成された大問題作『ティン・パン・アレイ』を世に送り出し、事前に公開されていた『毛皮のマリーズのハロー!ロンドン(仮)』とのタイトルを無視して『THE END』なるアルバムを発売し、その日の夜に解散発表を行う策略家の志磨のことだ。これほどにニッチな視点で仄めかすということは、十中八九Los Infelnoはあの4名によるバンドであり、言うならばサウンド的相違点こそあれ、Los Infelnoは実質的には毛皮のマリーズということになる。


では彼らは、何故このタイミングで9年越しに顔を合わせ、毛皮のマリーズではなくLos Infelnoなる謎の覆面バンドの結成に至ったのか。言わずもがな、その理由はコロナウイルスである。


今回のリリースの収益の向かう先である新宿red clothは、今までキャパの大きなライブハウスに立つ以前の毛皮のマリーズにとって、360度ライブやリリースツアー、ひいては今や志磨のソロバンドとなったドレスコーズに至るまで、数々のドラマが生まれた場所である。詳しい名言はされていないが、長い下積み時代を過ごした彼らにとって新宿red clothは、大きな恩のある場所なのだろう。


そう考えると、此度の突発的なリリースにも合点がいく。正体をひた隠しにするのは「もしかすると彼らは毛皮のマリーズなのではないか」と世間の注目を浚うため。チープな音源は、徹底してスピードを突き詰めた結果。音源を謎のインターネット上での販売に限定したのは、レーベルや各所とのやり取りに顕著な『寄付に至るまでの様々な紆余曲折』を回避するため……。全ては推察に過ぎないが、これら全てを一口に『いち個人の盲信』として一蹴することが出来ないというのもまた、事実なのではなかろうか。


前述の通り、志磨の口からLos Infelnoについての情報がもたらされることは、それこそ新宿red clothが今まさに閉店に至るギリギリの状態という状況にならない限りはほぼないだろうし、それどころか彼らはおそらく今回のリリースを最期に、大多数の音楽ファンに存在を知られることもなくひっそりと姿を消すことだろう。


確かに音源はチープで、歌詞も意味不明なLos Infelnoの初音源“Dos Dos Dos”。けれども何度もリピートしている不思議な魅力が秘められているということは、数字や論理では図れない確固たる事実として垂直に立っている。実際自分自身も何故聴くのか、その理由も定かではないため正直もどかしい思いはあるのだが、とにかく。そのアーティストに心酔する契機というのはいつも、それが歌詞だったかメロディだったかに関わらず、共通するのは『そのとき感じた衝撃』だったはずだ。コロナ禍に怯える今、無観客ライブや過去のライブ映像の無料配信、今の自粛生活を赤裸々に綴った新曲の公開など、様々なアーティストによる希望に満ちたアクションがもたらされている。しかしながらメッセージ性でもアーティストが元々持っている影響力でも、考え抜いた試みでもなく、衝動をライブハウスに直接的に還元する泥臭く愚直なアクションというのは、思えばほとんどなかったように思う。

 


ZOOM対談 谷賢一×志磨遼平「コロナ禍を生きる2人のクリエイター」


去る4月30日にYouTube上で公開された『ZOOM対談 谷賢一×志磨遼平「コロナ禍を生きる2人のクリエイター」』にて、志磨はほとんど音楽に着手出来ていない現実を語り「今たとえば僕らが新しいものを発表したとして、それを本当にみんなが純粋にその作品に没頭してくれるのか?……っていうそんな余裕が自分たち含めてあるかというと、そうとは言い切れないというか」と述べ、加えて「多分今年まだ半分以上残ってて、みんな(アーティストは)活発に発表はすると思うのね。凄いインスタントな形かもしれないけど。家で作った新曲ですとか、あるいはオンラインみたいなので遠隔で演奏していますとか、そういうのはあるにしても規模の小さいものになるっていう。だから歴史的に見て2020年に発表される曲って、多分凄いミニマルな曲になると思うんだよね」とも語っていた。これらの発言に照らすと、やはり志磨が策略的に今回の計画を立案したのは明白で、理にかなっているとも思えてくる。


前述の通り、“Dos Dos Dos”では主だった日本語詞はほとんど聞こえない。これは決して誇張ではなく、何度もリピートしている僕でさえサビで歌われる「外せない時間」「僕を許して」「マスク越しに」「今はどれだけ」の4つしか聞き取れなかった。それ以外の歌詞はどれも、バンドの音像に埋もれて判読不能。これらの歌詞を見ると一見コロナ禍に伴った息苦しい日常に焦点を当てた楽曲にも思えるが、歌詞中でスペイン語を多用していることからも分かる通り、やはり直接的に意味を持つ楽曲でないのは確かである。けれども意味不明で支離滅裂にも関わらず何故か心を震わす“Dos Dos Dos”はまるでロックンロールの始祖のようでもあり、初めてバンドを組み、スタジオで爆音を鳴らした際のテクニック度外視で爆音に蕩けていたような勢いを纏って鼓膜を刺激する、ロックンロールにとって何にも勝るべき魅力を持ち合わせているのだ。だからこそ何度聴いても意味などないと分かっていながら、今日も僕はこの曲を聴くのである。

映画『イニシエーション・ラブ』レビュー(ネタバレなし)

こんばんは、キタガワです。


突然だが、読者貴君にとって映画に求める最も重要なポイントとは何だろうか。ストーリー?ジャンル?はたまたイケメン俳優?……好む映画の形態が人それぞれバラバラなように、その映画に求める事象というのもまた、異なって然るべしである。けれどもその実、全ての『映画を鑑賞する人間』に当て嵌まる共通項も絶対に存在する。それこそが「どうせ観るなら満足度の高い作品を観たい」との気持ちではなかろうか。


そんな『満足度の高い映画』として今なお教科書的にカテゴライズされるのが、ズバリ『どんでん返しもの』である。実際、どんでん返し作品の需要は高い。書店やレンタルショップにおいてもポップにデカデカと「衝撃のラスト!」「こんなラスト見たことない!」など最終的に何らかのどんでん返しが起こることを確約しているものは多く、今ではそうしたどんでん返しものを収集する人々が好みの作品を語る、特殊なオフ会が開催されている話も聞くほどだ。

 

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今回紹介する映画『イニシエーション・ラブ』は、そんなどんでん返しっぷりをひた隠しにするどころか、公式パンフレットに見たことのないQ数でもって「最後の5分全てが覆る。あなたは必ず2回観る」と銘打っている。……これは決して誇張ではない。今記事の最後に貼っている公式PVでも、公開当時バラエティー番組における番宣でも、今作については「最後には予想もしなかった、映画界に残る結末になっています!」といった売り文句を主演陣が発言したことを覚えている。そう。『イニシエーション・ラブ』は、映画界でも類を見ないレベルで振り切った言わば『どんでん返し宣言型映画』なのである。


今作のあらすじは、モテない男・鈴木がひょんな出会いからマユ(前田敦子)に好意を示し、後に関係が進展。鈴木は彼女に相応しい男になろうと奮起し、髪型や服装に気を使って自分を磨く。こうしてめでたく付き合うこととなった二人は幸せな日々を送っていたが、突如鈴木は東京本社への転勤が決まってしまったことにより、遠距離恋愛関係となる。そして鈴木は静岡と東京を毎週往復するハードスケジュールをこなすが、次第に心が離れていき……というもの。


公式にも大々的に冠されているので語ってしまうが、今作はラスト5分間のまさかの展開こそが最大の見せ場である。これは誇張でも何でもなく、1時間40分に渡る今作のストーリーは最後の5分で完全に、180度破壊されるのだ。


無論どんでん返しを行うためには多数の伏線回収が必要となる訳だが、それは例えば推理小説で言うところの、後に犯人とされる人物が突然「ちょっとトイレ行ってきますね」と席を離れたり、「僕昔自衛隊入ってて」と話した人物がその高い身体能力を生かしてトリックを成し得たりといったチープなものではない。その伏線の大半があまりにも自然、かつじっと画面を凝視していても意識の埒外にあるような予想外の事象であり、総じて視聴者の視線を上手くかわす行動が非常に秀逸なのだ。僕自身数多くのどんでん返し作品に触れた自負はあるが、見事に騙された。この点は素直に素晴らしいと思うし、上げに上げたハードルを見事クリアした感すらある。


しかしながら何というか、この映画を文句なしの好評価とする人間はおそらく、映画や小説等に触れた経験の少ない人間か、恋愛映画を好んで鑑賞する人間なのだろうなとも思ってしまう。というのも世間一般的に言われるどんでん返しものと比較すると、幾分興奮に欠けるからだ。その主人公たちに感情移入して一喜一憂する類いの人間にとっては間違いなく頭をハンマーで殴られるような衝撃であろうが、無意識的に日常に起こり得る物事の『裏』を考えてしまうような穿った人間には、どうしてもラストの展開は「うわー!スゲー!」ではなく「ああ……おお……」となる。実際『鑑賞前のハードルを超えたか超えなかったか』が賛否両論となる根本的な要因だと思っているため、これに関しては正直、どんでん返しを確定事項として期待を煽った売り方が悪かった(何かしらのアピールをしなければ動員が振るわない、今の映画シーンの悪い部分もあるが)。


いろいろ語ってはしまったが、前半から例のラストにかけてのストーリーも作り込まれていたし、それでいてオチはバシッと。更には空前絶後のオチに関しても予想出来ないように工夫が凝らされているなど、総合的に観ていち映画として非常にうまい作りであった。飄々と「私恋愛系の映画好きなのぉ~!」とのたまう女子にこの映画を観せたら、心底ぶったまげるんじゃなかろうか。


しかしながら『あなたは必ず二回観る』『140万人が騙された!』と事前にハードルを極端に高めて過度な期待を煽ったことを踏まえると、最終評価は以下の通りに。いろいろ書き殴ってきたが、異常にハードルが上がった(上げた)状態でこの完成度に着地したことは素晴らしかったし、個人的には内容を全く知らない友人に観せたい映画トップ5には入る。恋愛系の映画を観たい。でも普通の恋愛はつまらないとするワガママな人間にこそ、是非勧めたい1本。


ストーリー★★★★★
コメディー★★★☆☆
配役★★★☆☆
感動★★★★☆
エンターテインメント★★★★☆

総合評価★★★★☆

 


松田翔太×前田敦子!映画『イニシエーション・ラブ』予告編

RED in BLUEの新曲“アンコール”が照らす、ライブハウスの未来

こんばんは、キタガワです。

 

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収束の兆しが未だ見えない、新型コロナウイルス。その想像を絶する未曾有の蔓延は、退屈で普遍的だったはずの日常をも大きく変貌させた。徹底したマスクの着用、外出自粛、テレワーク、再放送ばかり放送されるテレビ番組……そうしたコロナウイルス発生前後の変化は枚挙に暇がないほどで、かつては考えられなかった異常な生活が私たちの新たなスタンダードと化している感すらある。


そうした中困窮の一途を辿っているのが、音楽ファンの遊び場ことライブハウスだ。報道等で密閉・密接・密集という所謂『三密』の危険性がしきりに叫ばれるようになってからというもの、ライブハウスへの風当たりは悪くなる一方であり、今や人口の絶対数が極めて多い都市部のみならず全国的に、ライブハウスは大多数のライブの延期及び中止を決断するに至った。そしてその弊害により、土地代や給料面の支出が膨らみ困窮状態と化しているライブハウスは少なくなく、一寸先も見えない現状に焦心苦慮しながら、日々を何とか耐え忍んでいる。


そしてコロナウイルスの影響は、年間通して途方もない日数をライブ活動にベットし、ライブと共にのしあがってきた広島発のロックバンド・RED in BLUEにも同様に、暗い影を落とした。自主企画ライブのみならず予定されていたライブは軒並み白紙となり、活動当初よりライブ至上主義を掲げていた彼らの生活は一変。バンドの公式ホームページには『新型コロナウイルスの影響を受けて』との理由を中心に据えた悲しき報告が踊った。


けれども彼らはコロナ禍の渦中にあっても、決して希望の光を絶やすことはなかった。アーティスト間で明るい話題をとSNSにて大々的に広まった『うたつなぎ』やオリジナリティー溢れるカバー動画、更にはライブハウスの現状や支援策も自主的に発表。こうした情勢の中において日本国やウイルス、日常生活の変貌といったネガティブな思考を発信することではなく一縷の光を見出だすための打開策を前向きに発信し、ライブハウスの未来に繋がる手段を模索した。


そんな彼らが今こそ放つ救済の一手こそ、ライブハウスを大々的にフィーチャーした新曲“アンコール”である。

 


RED in BLUE-『アンコール』(参加型MV企画)-


“アンコール”の曲調は彼らの楽曲の中では比較的明るめなエイトビート。更には“レーザービッチ★花沢”、“グッバイエビワン”等ライブの定番曲で顕著に現れていた高橋(Vo)のオートチューンを介したボーカルは一切加工なし。これ以上ない裸の歌声でストレートに歌詞を届け、かねてより武器としてきたスペースサウンドも控え目に幾分ロック然とした雰囲気に満ち満ちており、更には壮大なシンガロングあり、ダンサブルなギターリフありの極めてパンキッシュなナンバーとして仕上がっている。


“アンコール”は後日YouTube上で配信された生放送『RED in BLUE MEETING!!』内の高橋の言葉によれば、最後にライブを行った去る3月下旬から僅か1ヶ月半という急ピッチで完成にこぎつけたとしている。確かに楽曲全体に目を向けると音源は全て宅録、ミックス及びリマスタリングはプロを介さず、作詞作曲を担った田口(G)が務め上げたという昨今の音楽シーンでは他に例を見ない程のDIYぶり。そのため彼らがCD音源としてリリースした他の楽曲群と比較すると、ある種自主制作感溢れる音像となっているのは正直否めないところだ。けれどもこの楽曲がスピード感のみを重視した駄作かと問われれば決して違う。何故なら彼らが今までに発表したどの楽曲よりも肉体的かつ感動的に、凄まじい説得力を伴って鳴り響いているのだから。


《タバコと酒と薄闇/ノルマと汗と耳鳴り/日が昇るまで語らい/まだ見ぬ君をフロアに描いている》

《セットリストの最後の曲が/まだ頭で鳴っている/ヘッドライナー/トリを務めるのは/君の口から溢れるアンコール》


タイトルに冠されている通り、徹底してライブハウスをテーマの中心に据えている“アンコール”。しかしながら彼らが最も強く抱えているであろうライブハウスへの感謝はもとより「全員でこの困難を乗り越えよう」との連帯意識も、ライブハウスのポジティブな面を列挙するような希望的観測さえ、この楽曲ではほぼ歌われていない。“アンコール”でしきりに叫ばれる内容はただひとつだけ。それは「ライブハウスはこういう場所である」との何よりも明確な事実証明だ。


……思えば彼らは結成当初から、ライブを第一義として活動を行ってきた。広島に拠点を置きながら時には他県、時には決して安くない交通費をはたいて都市部へも赴き、焦燥に駆られるかの如く全国を駆けずり回る……。それこそが彼らの活動の源とも言える重要事項であり、また彼らの類い稀なる魅力のひとつでもあった。


広島でのライブに数多く参戦している人ならば、広島クラブクアトロで何かしらのライブが開催されるたび、終演後PARCOの出入り口で「広島のバンド、RED in BLUEです!よろしくお願いします!」と寒空の中、存在をほとんど知らないはずの音楽ファンの前に立ち、フライヤーを配り続ける彼らの姿を一度は目にしたことがあるはずだ。けれども今やクラブクアトロも、Cave-beも、4.14も、セカンド・クラッチも、尾道B×Bも。今や彼らが日常を過ごしてきた大半の広島のライブハウスは、表立ったライブイベントを停止している。ライブを信条としてきたRED in BLUEにとっては、半身をもぎ取られるも同然であろうと思う。


“アンコール”は言わずもがな、壮大なシンガロングを巻き起こす新たなライブアンセムとして、今後彼らのセットリストの中心を担う重要な楽曲となることだろう。しかしながらコロナ禍でライブの先行きが見えない現状、どう足掻いても完全なる三密となってしまうライブハウスが完全に復旧することは極めて難しいというのも正直なところで、それどころか第二波・第三波いかんでは更に絶望的な状況となる可能性すらある。そんな中“アンコール”は今後いちバンドマンの楽曲としての側面に留まらず、世間的に後ろ指を刺され続けるライブハウスへの批判的意見に一石を投じるメッセンジャーとしての役割を担い、最終的には今後大規模な変化を強いられるであろうライブハウスの未来を多少なりとも照らす存在になり得るのではなかろうか。


前述した生放送『RED in BLUE MEETING!!』にて、高橋は「(“アンコール”は)元々は何らかの形としてお世話になっているライブハウスに寄付が出来ればとの思いで制作した曲だった」と語っていたが、その言葉を体現するかの如く、アンコール”のMVでは事前に募集されたライブハウスを愛するファン、関係者による総数700枚以上もの『ライブでの思い出の写真』が用いられている他、概要欄には「様々なライブハウス支援企画の情報ポータル的役割を果たしたい」との強い思いから、個人・企業問わず各種チャリティー情報を掲載する独自の試みも図られ、総じて今でも“アンコール”の拡散と閲覧は直接的にライブハウスへの支援として還元される形を取っている。


……実際、バンドマンが今ライブハウスに対して出来ることとは何だろうか。そもそも最も揺るがない事実として、多くの一般大衆を突き動かすのは圧倒的に、全国的に人気を博しドームやアリーナ等の大規模なライブをソールドアウトさせるレベルのミュージシャンの声だろうと思う。しかしながら現状困窮状態と化している小箱のライブハウス、及び地元のバンドを積極的に応援する地域密着型のライブハウスと密に接し、その悲痛な声を何よりもリアルに届ける役割を担う最たる存在というのはやはり、彼らのようなインディーズバンドなのだと信じて疑わない自分もいる。

 

正直此度の“アンコール”の発表はライブハウスへの見方が好転するほど多大な影響を及ぼすとは思っていないし、彼らもそれは重々承知しているはずである。しかしながらライブハウスが世間から後ろ指を指されている今、理屈やSNS、世間一般的な意見では図れない、ライブハウスという遊び場そのものを純度100%のリアルで伝える力を携えた楽曲であることは間違いない。そう。逆境に立たされるライブハウスの未来を照らす、試金石とも言えるメッセージソング……。それこそが“アンコール”であり、ひいては彼ら、RED in BLUEに託された指名なのだ。

【ライブレポート】milet『THE HOME TAKE』@YouTube

こんばんは、キタガワです。

 

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今や音楽ファンに広く認知されるに至った、YouTubeで定期的に配信される一大コンテンツ・THE FIRST TAKE。「白いスタジオにしても置かれた一本のマイク。ここでのルールはただ一つ。一発撮りのパフォーマンスをすること」との基本理念の通り、THE FIRST TAKEはアーティストが1本のマイクのみを武器として数分間を形作る独自性の高い新たな音楽の発信方法として話題を集めてきた。しかしながら昨今コロナウイルスの蔓延により外出自粛の流れが叫ばれる中、今回からはアーティストの自宅及びプライベートスタジオを主戦場とした特別版『THE HOME TAKE』として爆誕。「いま、こんなときだからこそ、音楽を届けたい。すべては、家の中からはじまる。」をコンセプトに冠してTHE FIRST TAKEの重要部分はそのままに、舞台をそのまま他所に移した形で行われた。


そんなTHE HOME TAKEの第二回目として選出されたアーティストこそ、新時代のシンガーソングライター・milet(ミレイ)だ。実際音楽番組への出演やライブ経験は多々あれど、ほぼ例外なくバンド編成であった彼女であるが、録音場所がかねてよりのTHE FIRST TAKEと異なっていることから、今回のライブはmilet史上最小編成となることはほぼ確実。しかしながら同時に、miletについて語られる際、歌声にスポットが当たることが極めて多いmiletの真髄を体感できる稀有な機会でもあった。


……milet自身、此度のコロナウイルスの蔓延により大いなる影響を被ったアーティストのひとりである。記念すべきファーストアルバム『eyes』は2週間延期の後、更に1週間の延期を余儀無くされ、『eyes』を携えた自身最大規模となる全国ツアー『milet live tour 2020 “Green Lights”』は数回に渡る延期の末、全公演の開催中止を決定。そこには「秋には、大好きなみなさんと笑顔で会えることを心から祈ってます。生きていれば当然、いろんな気持ちになります。でも必ず最後は前を向いてやりましょう。前を見る勇気を持ちましょう。一緒に進みましょう。健康で、元気でいてください」とのmiletの切実なコメントが残されていた(現在はそれに代わる新たな全国ツアー『milet live tour 2020 “eyes”』の開催が11月から予定されている)。そう。本来であればツアーが終幕していたはずのmiletは、一切のライブを行うこと叶わず、この場に立っていたのだ。


歌唱前、「皆さんこんにちは、miletです。こうやって皆さんの前で歌わせていただくのは本当に久しぶりなんですけれども、皆さんのSTAY HOME時間……お家時間が少しでも良いものになりますように、歌わせていただきます」と思いの丈を語ったmilet。その表情は穏やかで、久々に全国のファンに向けて歌える喜びを噛み締めるようでもあった。

 


milet - us / THE HOME TAKE


カメラから視線を外し、ポップブロッカーを介したマイクに向かい合ったmilet。そしてアコースティックギターの調べをバックに、彼女の歌声が朗々と響き渡っていく。そのあまりに純然かつ清らかな歌声は『今ここでmiletの音楽を聴く』以外の行動を意識の埒外に追いやってしまうほどの高い衝撃でもって響き渡り、気付けば無意識的に画面に釘付けに、ヘッドホンを押さえ音量を増幅させる尋常ならざる求心力を伴って鼓膜を震わせる。サウンドを形作るのは、アコギとドラムという一見アコースティックな編成。しかしながらギターは一貫してコードではなく爪弾きで単音を鳴らし、ドラムに関しても全体的に手数が極めて少なく、更には音を拾うマイクの距離自体も著しく離しており、あくまでもmiletの歌声を第一義とする試みが成されていたのも印象深い。


CD音源においては前半部は緩やかに、後半にかけて徐々に壮大さを増していく“us”。しかしながら今回鳴らされた“us”は今までに観たどの“us”とも違う……具体的にはバックで鳴らされるギターによるハーモニクスやドラムの入り等直接的な要因も去ることながら、miletはサビ前にはフィンガースナップ、そしてサビに突入した際には歌唱トーンを変化させるという、いちシンガーとしての卓越したスキルで魅了(個人的には、このシーンにとてつもない歌唱努力と彼女の歌に対する愛情を見た)。リリース済みの正規の音源とは違った新たな“us”を、この日限りの素晴らしきアレンジで既存のファンのみならず、初めてmiletの楽曲に触れたリスナーの心に深く刻み込まれた一幕であった。

 


milet「us」MUSIC VIDEO(日本テレビ系水曜ドラマ『偽装不倫』主題歌)


《このキスでどうか終わりにしないで 今だけは/全部嘘でもあなたに触れていたい/I want you now》との歌詞やテレビドラマ『偽装不倫』の主題歌に抜擢されたことからも分かる通り、“us”は既婚者であると偽りながら恋愛関係を続けるひとりの女性が、自身の吐いた嘘に悩みながらも他者の愛情を渇望するストーリーを描いた恋愛歌である。けれども至極感動的に映った今回の『THE HOME TAKE』における3分超のmiletが魅せた3分超の物語は、今に生きる私たち(us)に向けての讃美歌としての側面さえ携えていたようにも思うのだ。


行き場の無い心に悩む『“us”』。コロナウイルスによりSTAY HOMEが叫ばれ、何処かへ行くことすら困難な時代に生きる『私たち』……。従来の企画とは趣を異にする特別版・THE HOME TAKEでこの楽曲が鳴らされたのはきっと、偶然ではない。


《I want you 想いを伝えたら/I want you 消えてしまうかな/Will you stay?》

コロナ禍の今だからこそ、ライブハウスの未来を真剣に考えてみよう

こんばんは、キタガワです。

 

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猛威を振るうコロナ禍。先日には緊急事態宣言の延長が正式発表され、一時期のピークと比べれば感染者が減少傾向にある現在においても、未だコロナの恐怖は日々我々を締め付け、大いなるフラストレーションを抱える要因となっている。


そんな中大いなる被害を被っているのが、ライブハウスだ。


大阪のとあるライブハウスがクラスターと化し、コロナウイルスが全国的に蔓延……具体的には密閉・密接・密集という所謂『三密』の危険性が叫ばれるようになった頃からライブハウスに対する風当たりは悪くなる一方で、当初細々とライブを行っていた小箱のライブハウスでさえ世間からの同調圧力に屈するかの如く次々とライブ延期・中止を決定。今では実に日本全国の90%以上にのぼるライブハウスが営業を自粛している。


そこで今回は全国を飛び回り年間数十にも及ぶライブレポートを執筆し、曲がりなりにも音楽ライターとして活動する僕が考える『ライブハウスの今後』を、飾らない本音で洗いざらい語っていきたいと思う。


まず結論から述べてしまうが、僕は最低でも今年1年間、ライブハウスは営業出来ないと踏んでいる。更には全国的に数十のライブハウスは潰れることもほぼ決定事項で、ライブという概念自体が認知の埒外へと追いやられるのではないか、そして最終的には音楽全体として、ライブに代替する新たなムーブメント(生配信、過去のライブ映像配信等)が更に広がるのではとも危惧している……というのが正直な予測である。


緊急事態宣言の延長が正式発表された去る5月4日。安倍内閣総理大臣は記者団の前で「コロナの時代の新たな日常を作り上げなければいけない」とし、ウイルスの存在を前提としながら勤務・登校・日常生活を送る新たな生活様式に取り組む必要性を明らかにした。ワクチンが出来ようが体内に抗体が出来ようが外出を控えようが、感染の核部分を叩かない限り、コロナウイルスはおそらく今で言うところのインフルエンザや麻疹等と同様『誰でもいつかはかかる』病になる。とどのつまり政府はコロナ終息という可能性が著しく低いと捉えており、共存の道を模索していることをほぼ決定事項としたことと同義なのだ。


ここで一度、その『コロナウイルスと付き合っていく新世界』とは何かを考えてみよう。


今後は外出自粛が解除され、日がな一日マスクを着用する人間も次第に減っていくだろう。スクランブル交差点や居酒屋も、人で溢れ返るかもしれない。けれども給付金や救済措置で湯水の如く金を使った弊害で、日本の国債は膨れ上がっている。そこで経済を回すため絶対的に行わなければならないのが、飲食店やパチンコ店、バー、各種イベント等金を生む事柄の自粛解除だ。もっともおそらくこうした状況下においても、国は一応「三密の場所は避けてください!」と呼び掛けはするだろうが、暗黙の了解で表立って自粛を呼び掛けることはしないだろう。何故ならそうした店が消滅すれば、経済が死んでしまうためである。


さて、ここでライブハウスに焦点を当ててみる。果たしてライブハウスは、直接的に経済に利益を生む存在なのだろうか。答えはおそらくノーである。何故ならライブハウスの運営は徹底して『ライブハウスと所属事務所』という双方向的な図式になっているため、たとえライブで大入りになったとして所属事務所(運営会社)やライブハウスが潤うことがあっても、それが社会に還元されることは然程ないからだ。


例えば人気を博したアーティストにKing Gnuがいるが、「彼らが評価されたのはライブなのか?」と問われればそれは違って、答えは純粋に楽曲が良かったためである。そう。今やストリーミングサービスやYouTubeの台頭で、手早く楽曲に触れる機会が広がると共にライブ市場の重要性は限りなく落ち込んでいる。日常会話においても「King Gnuの曲知ってる?」や「King Gnuの白日良いよね!」との会話は多々あれど「King Gnuのライブ良いらしいよ!」との会話というのはほとんど成り立たないだろう。星野源やOfficial悲男dismも同様に楽曲を聴いたことのある人間はごまんといるだろうが、実際ライブに参加したことのある人間というのはファンの中でも圧倒的に少数派なのだ。


MDが切り捨てられてCDになったように。CDが切り捨てられて違法ダウンロードになったように。違法ダウンロードが切り捨てられてストリーミングになったように……。ライブが切り捨てられた後、そこには純粋に『今まで通りの音楽』が残されるだけなのだ(YouTube上におけるライブ映像の違法アップロードも、実際にライブに行かない空気に拍車をかけるのではなかろうか)。だからこそ社会的に不要なものとして真っ先に槍玉に挙げられるのはきっとライブハウスで、然程ライブに恩恵を感じていない世論は真っ先に首を絞めにかかるだろう。


……前述した通り、今後は新たな生活様式がスタンダード化していくことになる。ボーリングでは1レーンに2人だけであったりカラオケでは距離を離し、居酒屋は全てタッチパネルを廃して注文制……そうした未来もあるかもしれない。そんな中絶対的に討論が必要なのは、「果たして危険を犯してまでライブハウスに行くのか?」という根本的なトークテーマだ。


もはや言うまでもないが、ライブハウスは三密だ。爆音で音楽を鳴らすが、その爆音が外に漏れないように分厚い壁で『密閉』する。ライブを鑑賞する人間が肩を寄せ合い、時にはぶつかり合い、共に熱唱しながら『密接』する。数百人規模の人間が狭い空間に『密集』する……。僕自身数多くのライブに参加してきた自負はあるが、ひとつの例外もなく全てのライブハウスはこれ以上無い三密で、実際ライブハウスがクラスター化したニュースを観て「そりゃ感染するわな」と思った自分もいた。


少し話は脱税するが、コロナウイルスの恐怖は何も死に至らしめるだとか感染力が高いだとか、そうした次元の話ではもはや無い。家族への感染の危険性はもちろんのこと、今までニュースで観てきた通りひとり感染者が判明すればその数日間関わった人間や立ち寄った場所といった情報のみならず、数日間の足取りや家族構成、勤務先や本名年齢まで一網打尽にされてしまう危険性がある。これがコロナの特筆すべき点なのだ。


思えばここまで大多数の人間がSTAY HOMEやらソーシャルディスタンスやらを頑なに守ってきた理由は、何より『他者にコロナをうつさないため』というのが最も大きかった。実際「たまには外に出たいな」と思うことも多々あったろうが、その都度間接的な否定言動をSNSや家族間で目の当たりにした結果「やっぱ外出ちゃダメよな」とする思考変換でもって、ここまで耐えてきた人はとてつもなく多いはずだ。


だからこそ、ライブハウスが再開したとて、普通の人間ならば危険性と楽しさを天秤に掛けた結果「行かない」との選択を取るのが当たり前。もしそれでも行こうものなら、おそらく周りの人が必死で止めるだろうし、大いなるヘイトを買う。「めちゃくちゃ楽しいけど100回に1回墜落する遊具」があったとして、そこに行きますかと問われれば答えはノーに決まっているのだ。


……ここまでつらつらと筆を走らせてきたが、今後のライブハウス市場が絶望的な状況となることはほぼ避けられないだろう。都市部のライブハウスでは土地代だけで毎月数十万~数百万とする試算もあり、実際ギリギリもギリギリ。本当に身を削る思いで何とか潰れないようもがいているのが現状だ。


ただひとつ希望的観測があるとすれば、ひとつしかない。それはライブハウスに訪れた人間が、ライブハウスでしか味わえない衝撃を体験しているということ。音楽を聴かない人間にとっては一笑に伏されるような事柄だろうが、たった一回のライブで命を救われたり明日への活力となったり、「○月のライブのために頑張ろう」と奮起する人間は山ほど存在する。だからこそ、僕は声を大にして唱えたい。ライブハウスは絶対に無くしてはならないと。音楽好きの遊び場が無くなるなんてことは、あってはならないのだ。ライブハウスが完全に元通りになることはおそらくないだろうが、それでも、希望の光は今後も持ち続けていたい。

 


コトリンゴ -「 悲しくてやりきれない 」

突如公開されたオアシス幻のデモ音源“Don't Stop…”から見る、コロナとギャラガー兄弟

こんばんは、キタガワです。

 

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ウイルスの蔓延により未曾有の危機に陥る今、世界的に著名なミュージシャンによる希望に満ちたアクションが、日々希望の光の如く広がっている。


新型コロナウイルスの救命活動を現在進行形で行っている医療従事者を称え、支援することを目的としたチャリティーライブ『One World: Together At Home』ではレディー・ガガをはじめポール・マッカートニーやチャーリー・プースなど新旧の音楽シーンを代表するアーティストがエールを送り、若者から絶大な支持を得る新世代のニューヒーロー、ビリー・アイリッシュは自身のインスタグラムにて数分間に渡ってウイルスの脅威と、人々が今取るべき行動を真剣にレクチャーした。他にも名だたるアーティストが人々の不安を和らげるべく様々な趣向を凝らし、この見通しの立たない現状を乗り越えるために奮起している。


そんな中注目を集めたのが、惜しまれつつも突如解散し今なお再結成が待ち望まれるロックバンド、オアシスの動向だった。

 


Oasis - Don't Look Back In Anger (Official Video)


この話を始める前に、まずはオアシス解散の経緯から説明する必要があるだろう。ファンには周知の事実だが、世界中で人気を博した伝説的ロックバンド・オアシスの解散の直接的原因となったのは、メインソングライティングを務める兄ノエルと空前絶後のロックンロールスターである弟リアムによる修復不能なほどに深まった確執にあった。当時から彼ら兄弟間の仲の悪さは有名で、プライベートでは蔑み合い、個人のインタビューではほぼ必ず互いの不満点を口にし、果ては突発的な喧嘩でライブが強制終了となるなど、幾度も衝突を繰り返してきた。そしてリアムがノエルのギターを破壊したとか、ノエルの妻がリアムを毛嫌いしているとか、当時からノエルがソロ活動の準備を始めていたとか理由は諸説あるがとにかく、バンド(リアム)に対して著しいフラストレーションを抱えた末ノエルはバンド脱退の選択肢に突き進み、バンドは空中分解。2009年に解散するに至ったのだ。


そして自己の思考を第一義とし、傍若無人な言動でも話題を振り撒いたふたりの兄弟は奇しくも水と油の関係性のまま、対極の音楽道へと歩を進めるに至った。ノエルは解散後ほどなくして自身のソロプロジェクト『ノエル・ギャガーズ・ハイ・フライング・バーズ』を結成して活動を全振り。対するリアムは新たなバンド『ビーディ・アイ』を結成し、紆余曲折を経てビーディ・アイ解散後は完全なるソロシンガー『リアム・ギャラガー』として不動の地位を確立した。


しかしながらその両者におけるオアシスの捉え方も同様に対極に位置するもので、オアシスを過去の栄光として決別したノエルと、今でも強く再結成を望み、自身のライブではオアシス曲を惜しみ無く披露するリアム……。どちらかが近付こうとすれば同じ分離れてしまう、まるで磁石のように反発し合うふたりの関係性は、年を追うごとに顕著になり、2018年に行われたイギリス音楽誌で敢行されたノエルに対してのインタビューでは『もし俺の所持金が50ポンドしか無かったとしても、リアムと再結成するなら路上ライブした方がマシ』とまで語る始末。よってオアシスの再結成は天文学的に遠退いたかに見えた。


けれどもある時、そんな両者の均衡を根底から覆す出来事が起こった。それこそが、コロナウイルスの流行である。


実際オアシス再結成の可能性はウイルスが蔓延する前から毎年のように噂されていたし、再結成に関してリアム自身はやぶさかではないようだった。けれどもノエル側は一貫して再結成を望む素振りは一切なかったし、それどころか、リアムがオアシスへの渇望を口にするその都度ノエルが雑誌のインタビュー等を介して放送禁止用語込みで一蹴することがおよそ恒例行事となっており、オアシス再結成を願っていたファンも今ではそうした兄弟間の応酬を言わば、ほぼ実現しない低い可能性に一喜一憂するエンターテインメントとして傍観している感すらあったように思う。

  

 
けれどもコロナウイルスの混乱の真っ只中であった3月下旬。そこに書かれていたのは「仲直りはもう頼まない。これは要求だ。コロナウイルスが収束したらオアシスを再結成する。全ての収益は病院関係に寄付する。お前はどうだ」とする決意表明であった。更に数日後には「お前が来ても来なくてもオアシスのライブをやる」とする呟きを投下した。ライブを筆頭として音楽シーンが徐々に困窮し、医療従事者の労働環境が問題視され、更に来たるコロナウイルス終息後の復興を鑑みると、今までとは異なり、かつてリアムが繰り返し訴えてきたオアシスの再結成。それが高い現実味を帯びた瞬間だった。

 


Oasis - Don't Stop... (Demo)


そして運命の4月29日。頑として首を縦には振らず沈黙を貫いてきたノエルの手で突如投下されたのが、オアシスの未発表デモ音源“Don't Stop…”だった。言わずもがな、今までオアシスに対して一定の距離を置いてきた彼としては異例の行動であり、その一報は当然の如く海外メディアで大々的に取り上げられた。なおノエルは今回リリースに至った経緯について、ロックダウン(都市封鎖)中に、自宅でCDを整理している時に同楽曲を発掘したとしつつ「俺が知る限りこの曲の音源は約15年前に行われたサウンドチェックでのバージョンしかないはず」と“Don't Stop…”の価値を裏付けた。あれほど渋っていたノエルがオアシス音源を発表したことはとどのつまり「オアシス再結成が実現か!?」との希望的観測にも思える今回のリリースだが、ノエルは否定も肯定もせず、あくまでもリリースに至ったのは偶然の産物であったことを強調した。


けれども“Don't Stop”には、それだけで納得するのが難しいほど、今鳴るべき必然が宿っているようにも感じるのも、また事実である。


一貫してミドルテンポで進行する“Don't Stop…”。ボーカルを務めるのはリアムではなくノエルで、曲調のみを捉えればオアシスというより、どちらかと言えば彼が発起人となって結成されたバンド、ノエル・ギャガーズ・ハイ・フライング・バーズに近い印象を呼び起こさせる代物。よって楽曲自体の完成度は極めて高いものの、全体を覆う穏やかな雰囲気もロックバンド・オアシスとして鳴らされるものとしては些か地味な印象もあり、かつてのオアシスがデモの段階で封印したというのも頷ける。


けれども歌詞に目を向けると、この楽曲が今と密接にリンクしていることが見て取れる。


《Don't stop being happy/Don't stop your clapping/Don't stop your laughing/Take a piece of life, it's alright/To hold back the night》

《幸せになることを止めるな/拍手を止めるな/笑うことを止めるな/人生の一部を切り取って/それを抱えて眠る日があってもいいんだ(和訳)》


サビで繰り返し歌われる止めてはならないもの(Don't Stop)とは幸せ、拍手、笑いといったポジティブな事柄で、幸せと笑いは自粛期間中に精神状態を内向きにするための行動であり、拍手は医療従事者への感謝とも取れる。そしてそれらを《人生の一部を切り取って/それを抱えて眠る日があってもいいんだ》と不自由な生活を余儀無くされている人間の肩を叩く。無論この解釈は随分と『今』の考えに寄せていて、実際“Don't Stop…”が約15年前に存在していたことを踏まえると当時のノエルがコロナウイルスを受けてこの楽曲が制作された可能性は万にひとつもない。しかしながらどうしてもこの楽曲は今の情勢と重ねざるを得ないほどの説得力を纏っているのも、紛れもない事実として垂直に立っている。

 


……ノエルが“Don't stop…”を投下した翌日には、リアムが「古いデモ音源をリリースするんだったら、俺が歌っててボーンヘッド(オアシスの元メンバー)がギターを弾いてるやつにしてくれ。そうじゃなかったらお前と同じで価値がない」とツイートし、更には「オアシスの名前でリリースするなら、俺にも許可をとるべきだ。でも何も聞いてない。まぁ、あいつのことだから期待してないけどな」とも綴った。


今回のリアムの発言を鑑みるに、おそらくノエルとの距離は平行線を辿ったままであり、現時点ではオアシス再結成の確たる可能性は極めて低いのではなかろうかと思う。おそらく彼の性格を鑑みるに、何故ノエルがこのタイミングでオアシスの楽曲リリースに至ったのか、それにどのような意味が込められていたのかについて公の場で語ることはこれからもないだろうし、それどころか今後ライブで披露することも、今回の話を契機としてリアムが差し出したオリーブの枝を素直に受けとることもまた、同様にないだろう。だがたとえ彼の深意が掴めずとも、彼の今回の行動には大いなる意味を感じずにはいられない。そうでなくとも、コロナウイルスで世界が憔悴する今、オアシスを愛する大多数の人間に希望の光を灯したことは間違いないのだ。

【ライブレポート】ずっと真夜中でいいのに。『お風呂場ライブ 定期連絡の業務』@YouTube

こんばんは、キタガワです。

 

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去る5月6日。時刻は20時を回り始めた。定刻になると生配信の動画の幕開けを飾るYouTube特有のカウントダウンが始まり、心中の興奮が一段階引き上げられる感覚に陥る。もっとも閲覧者がリアルタイムでコメントを行うことが可能なチャット欄はこの時点で既に1秒ごとに数十のコメントが飛び交うパンク状態と化しており、今回の生配信を待ちわびていたファンの期待値の高さをこれ以上ない視覚的勢いで感じ取ることができたのも、高揚感の理由のひとつであろうが。


そんな焦らしに焦らすカウントダウンがゼロになると、画面上にはタイトルを体現したお風呂場のイラストがお目見え。その床には今までずとまよのMVに幾度も登場したオリジナルキャラクター『うにぐりくん』と、今回新たに仲間入りしたその名も『バクさん』が座っており、その前には小さなグランドピアノが鎮座している。なおこのイラストは今回のライブに際してかつて“蹴っ飛ばした毛布”のMVでも共演したアニメーションクリエイター・革蝉が手掛けた代物。全編通してヨタヨタと一生懸命にピアノを弾き倒すキュートなうにぐりくんとバクさんの光景ももちろんだが、演奏の途中途中で目まぐるしく展開する圧巻の映像美も、ライブを彩る重要なエッセンスとして一役買っていた。


そして次第に不穏なピアノが鼓膜を刺激し、記念すべき1曲目に至るまでの道筋を緩やかに形作っていく。瞬間聞き覚えのあるピアノリフと共に、昨年発売のミニアルバム『今は今で誓いは笑みで』でも同様にオープナーとして位置していた“勘冴えて悔しいわ”が生ライブさながらの勢いでもって鳴らされた。


今回のライブは事前にアナウンスされていた通りずとまよの中心人物であるACAねに加え、楽器隊はピアノのみという、多彩な音が鳴るCD音源とは一風変わったずとまよにしては珍しいミニマルな編成であった。更にはピアノはツインピアノであり、まずレフトピアノは昨今のずとまよのライブでも絶大な存在を担っていた村山☆潤。ライトピアノは“秒針を噛む”や“ヒューマノイド”、“脳裏上のクラッカー”など数々のヒット曲のレコーディングに携わった西村奈央というピアノの存在感が極めて印象的なずとまよを語る上では欠かせない2名。加えてイヤホンを装着しながらライブを閲覧すると左耳からは村山のピアノが、そして右耳からは西村のピアノが主張する仕組みも取り入れられており、サウンド面のみに関しては流石に実際のライブと全く同じとは言わないまでも、ライブさながらの臨場感溢れるサウンドが鳴り響く極上空間であったように思う。


ライブの舞台がお風呂場ということで、個人的に「過剰なリヴァーブがかかってしまうのではないか?」との一種の懸念事項も脳裏を過ったACAねの歌声も申し分なしで、CD音源と遜色ないほど朗々としたボーカルで魅了した。前述の通り今回のライブはピアノの音量が大きく設定されていたのだが、そのど真ん中をACAねの歌声が切り裂くように響き渡り、思わず息を飲む。


“勘冴えて悔しいわ”の後はACAねによるひとしきりのMCに移行。


「こんばんは、ずっと真夜中でいいのに。です。みなさん、元気……?何して、過ごしてますか。私は家で曲作ったり本読んだり、ゲーム実況観たりして過ごしてます。(今日本来は)幕張のホールでライブだったんですけど、延期になってしまって。残念ですが記念に歌いたいと思います」


たどたどしくも、言葉を選びながら思いを語ったACAね。後に「緊張してあたふたしていましたが..楽しかったです」と自身のSNSに綴っていた彼女だが、今までライブのMCや弾き語り形式の生配信でのACAねと比較するとボリュームを最大にしても所々聞き取れない吹けば飛ぶような語り口に徹しており、今回の実験的な試みは彼女の長い音楽人生で考えても未知の部分が多かったのだろうと推察する。けれどもそうしたACAねのトークもひとたび楽曲が始まると一転、高らかに突き抜ける歌声でもって心を掌握させる力強さを携える。総じてACAねはずっと真夜中でいいのに。という音楽ユニットとしての側面以上に、ひとりのシンガーとして類い稀なる才能の持ち主であることに気付かされる一幕であった。


続いて披露されたのは“蹴っ飛ばした毛布”。ここでどうしても思い返してしまうのが、昨年の10月24日、Zepp Tokyoにて行われたフルアルバム『潜潜話』リリース前に敢行されたプレツアーでの一幕だった。彼女はかつて“蹴っ飛ばした毛布”の歌唱前、2時間のライブ中最も長い尺でもって、集まったファンたちに極めて印象深い言葉を残していた。


「新しいアルバム(潜潜話)は、自分が中学生時代に悩んでいたことが軸になってて。昼休みとか休み時間とか、ひとりでいるじゃないですか。みんな、結局。私も友達がいなかったわけじゃないんですよ?でも、距離感を測ってる自分がいて。なるべく人に好かれたい、嫌われたくないっていうのがあって」


「その時から人に言われて気付いたんですけど、無意識に鼻歌を歌う癖が付いてたんです。本当に無意識で気付いてなかったんですけど、その話の『間』が怖くて。で、ある時それをつつかれて。友達に凄い耳障りな思いをさせてしまったのかと、悩んだりもして。でも今はこうやって歌ってるから、そうしたことも曲にしてるし。幸せだなって感じていて。弱い部分を歌で正当化して逃げてるだけかもしれないけど……。(“蹴っ飛ばした毛布”は)そんな不安を紛らわすために作った曲です」

 


ずっと真夜中でいいのに。『蹴っ飛ばした毛布』MV


《ずっと解決が 答えじゃないことが 苦しいの わかってるけど/無口な君真似ても 今は緩い安心が不安なんだよ》

《誰に話せばいい これからのことばかり大切にはできないから/すぐ比べ合う 周りがどうとかじゃなくて 素直になりたいんだ》


現状ずとまよには、記録に残る形として記された媒体は一切存在しない。コメント動画もインタビューもタブー。それどころかACAねの素顔やそもそもずとまよはACAねのソロなのかグループなのかという根底に関わる事柄についても一切の公表を拒み、徹底して『楽曲』という武器のみを用いてここまで登り詰めてきた。


だからこそ過去のふたつの依頼記事(以下参照)にも記したように、ずとまよの楽曲にはACAねの伝えんとすることが如実に現れていることは明白で、その中でも取り分け“蹴っ飛ばした毛布”における歌詞にはACAねの本心が極めてストレートに記されている。そもそもこうした事柄は考えること自体無粋だろうが、代表曲をほぼほぼ廃し、更には同じくピアノ主体の“”こんなこと騒動“でもグラスとラムレーズン”でも“Dear Mr「F」”でもなく、何故この楽曲が演奏曲は僅か4曲、時間は30分弱という環境下でセットリスト入りを果たしたのか、その理由については勝手ながら、様々に思考を巡らせてしまった次第だ。

 

rockinon.com

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その後は自在に緩急をコントロールしつつ、ライブにおいてもACAねのボーカルとピアノのみで進行していたこの日に相応しい“優しくLAST SMILE”で清らかな歌声を響かせると、最後は「良かったら最後お風呂場とかで一緒に歌ってください」との一言から、これを聴かずには終わることの出来ないずとまよ屈指の代表曲“秒針を噛む”をドロップ。

 


ずっと真夜中でいいのに。『秒針を噛む』MV


原曲ではギターの主張も強かった“秒針を噛む”だが、この日ばかりはピアノオンリーのアレンジで再構築。時計の針を刻むアニメーション映像が流れる中、先程披露された“優しくLAST SMILE”とは打って変わってソウルフルな歌唱に徹し、完全燃焼を図るACAね。終盤では《このまま奪って 隠して 忘れたい》とのコメントが踊るライブさながらの一幕もありつつ、ライブは大団円で幕を閉じた。


瞬間映像は切り替わり、ACAねが感情の赴くままに謎のぬいぐるみを布団上でダンスさせる映像でもって、5月14日に公開となる新曲“お勉強しといてよ”と、8月5日にリリース予定の自身3枚目となるミニアルバム『朗らかな皮膚とて不服』の報告が成され、そして本邦初公開の特報として10月30日に公開となる映画『さんかく窓の外側は夜』の主題歌決定と、その楽曲のタイトルが“暗く黒く”であることが発表され、この日のお風呂場ライブ『定期連絡の業務』の業務は全て終了したのだった。


もはや言うまでもないが、今の日本におけるネット発のアーティストとしてはずとまよは間違いなく、トップを走る存在である。思えばずとまよの存在が認知される契機となったのは突如YouTube上に投稿された“秒針を噛む”のバズであり、それからずとまよを一躍シーンの中心に押し上げたのは昨年発売のフルアルバム『潜潜話』だった。そして8月にリリースされるミニアルバム『朗らかな皮膚とて不服』はおそらく、ブームの渦中に漂うずとまよの人気を不動のものとする渾身の一作となるだろう。


そう。今回の『定期連絡の業務』は毒にも薬にもならないような単なる事務的な連絡ではなく、確固たる宣戦布告であったということを、我々は近い将来必ずや思い知ることになる。そう。ずとまよの躍進はまだまだ続くのだ。


【ずっと真夜中でいいのに。@お風呂場ライブ『定期連絡の業務』 セットリスト】
勘冴えて悔しいわ
蹴っ飛ばした毛布
優しくLAST SMILE
秒針を噛む